「ジャンプする幸せを感じたい」――世界選手権5連覇。“ブレード・ジャンパー”マルクス・レームを支えるもの
アラブ首長国連邦のドバイで開催されている、パラ陸上の世界選手権。大会7日目の13日(現地時間)、男子走り幅跳び決勝(T64)が行われ、マルクス・レーム(ドイツ)が8m17で金メダルを獲得した。今回の優勝で、世界選手権5連覇を達成した。レームに関する話題で必ず持ち上がる「義足」、そして長年タッグを組んできたコーチの存在。東京パラリンピック前、最大の大会に際し、レームのパフォーマンスを支えるものに迫った。
向かい風でも8m台
マルクス・レームが走り幅跳びのピットに立つと、観客席が自然と静かになる。
「どんな記録を出すのか……」
そんな期待感から、人々の目は185センチの長身に注がれる。助走を始めるかどうか、というタイミングで、観客席にいるドイツチームのスタッフが率先して手拍子を始めると、その波は会場全体に波及していった。
ダイナミックな助走、身体を後傾させない理想的な踏切で、ふわりと空中に伸び上がっていく。その跳躍フォームは他の選手と一線を画すものだ。
8m17。5回目の試技でマークしたこの日のベスト記録は、自身が持つ世界記録(8m48)から約30センチ劣るものだった。全ての跳躍で向かい風。走り幅跳びで特に重要な要素とされる助走も、一部の試技では噛み合っていないように見えた。
「向かい風は走り幅跳びでは致命的なんだ。助走が崩れてしまうからね。風向きに合わせて跳躍を微調整しようと試みたけど、難しかった。その状況の中では随分と良い記録だね」
そう語ると、「もし審判が追い風を確認して競技をできれば、もっと大きなジャンプができるだろう。風向きが特に重要で、ジャンプ動作は最後のひとピースだから」とやや皮肉まじりに続けた。
気候条件以外では、「良い感覚をつかめた」と振り返る。その好感触を、コーチとともに、来年に向けて更に洗練させていくという。
“元オリンピアン”との二人三脚
レームのコーチを務めるのは、シュテフィ・ネリウスさんだ。現役時代はやり投げの選手として2004年のアテネオリンピックで銀メダル。世界陸上では2009年のベルリン大会で金メダルに輝いている。現在は、レームらドイツのパラアスリートも多数所属する「TSV Bayer 04 Leverkusen」でコーチ業に従事。引退後、陸上競技のトレーニングについて専門的な勉強を6年ほど重ねたという。
レームの競技終了後、ネリウスさんにも話を聞くことができた。
「難しいコンディションだったけれど、(レームの)助走は良かったと思います。6回のジャンプ全てを踏切板の上で跳ぶことができたのですから。彼には『長く深く走って、早く起き上がるな』とアドバイスをしていました。8m17という記録については喜んで良いものか、少し考えないといけませんね(笑)」
やり投げの選手だったネリウスさんが、ロングジャンパーのレームをコーチングする。傍から見ればミスマッチにも見えるが、どのような相乗効果があるのか。大会直前のインタビューで、レームはこう話していた。
「多くのコーチや関係者は、『なぜやり投げの選手が幅跳びのコーチをするのか?』と言う。けれど、僕は普通のロングジャンパーではなく、“ブレードで跳ぶパラアスリート”だ。だから、教科書は存在せず、我々は“自分たちだけの方法”を発見しなくてはいけない。彼女(ネリウスさん)は一般的な走り幅跳びの技術が、僕には当てはまらないことを理解してくれている。だからこそ、既存の考えにとらわれることがない。彼女が幅跳びのスペシャリストではないことは、実はとても良いことなんだよ」
決断したブレードの“新調”
レームは、2012年のロンドンパラリンピック後から使い続けてきた義足を、今季から新調した。義足メーカーの「オズール」社と共同開発した、走り幅跳び専用モデルを使用している。世界新記録を連続して樹立した昨季と比べれば、今季の記録水準は劣るが、「(新しい義足)に適合でき始めている」と話し、さらなるビッグジャンプの予感も漂わせている。
レームは言う。
「今までの多くの競技用義足は、ランニングの為にデザインされていた。その結果、踏切の際に、時々(義足が)壊れてしまうという問題を抱えていたんだ。そんな状況もあり、メーカーと一緒に新しいモデルの創作を考えてきた。跳躍時の力を逃さないような、新型のブレードをね」
走り幅跳び用の新型義足は、従来のランニング用のモデルに比べて、形状と硬度が異なっている。硬度は、体重の8倍とも言われる踏切時の負荷に耐え、かつ跳躍力への転換を最大化するために、「硬すぎず、柔らかすぎない」ポイントを探ったという。
他方で、新型義足の設計は、「ランニングとジャンプの妥協点を判断する」道のりでもあったという。
「走る時は、地面に着く感覚がやや柔らかいものが良いけれど、跳ぶ時は義足の硬度が重要になってくる。2つの要素を両立できるブレードを作るためには、どこかで折り合いをつける必要があった。妥協点を見つけるのはとても困難なことだったよ。実を言うと、(新しいブレードに変えたことで)感覚がすごく改善したわけじゃない。でも、ランニング用の義足を使って跳んでいた頃に比べれば、自分の中の妥協が少なくなっているのは確かだ。これまでの経験で、義足を体にフィットさせていく過程には慣れているから、新型のブレードに変えても、短時間で感覚を掴むことができているように思う」
ブレードが有利というのなら……
“ブレードで跳ぶ”という言葉にも表れているように、レームの存在は、メディアを中心に「身体と義足」のセットで語られることが多い。
2014年、ドイツ選手権で「健常者」のロングジャンパーを抑えて優勝した時は、「カーボン製義足での跳躍はアンフェアではないか」と抗議の声があがり、ヨーロッパ選手権への出場を断念せざるを得なかった。
2015年のパラ陸上世界選手権で8m40をマークし、オリンピック参加の希望を公言すると、国際陸上競技連盟から「義足に有利性がないことを証明すること」という条件を提示された。現時点では五輪出場の可否に関する議論は中断しており、出場への道は閉ざされたままだ。
義足にまつわる一連の出来事が、奇しくも彼の存在を世間に知らしめていることは事実であり、レーム本人も自覚するところだ。
「『硬いブレードが大ジャンプに繋がっているのではないか』と多くの人が考えていた。数年前までは僕も同じ考えだったよ。でも、ある時『本当にそうなのか?』と考えるようになった。重要なのは“身体”と“ブレード”の接点なんだ。つまり、良い義足を使えば記録が出るわけではないということ。僕の技術、体重、助走のスピード、踏切の技術とパワーがあって、“ブレード”という要素がある。トップ選手と競おうとすると、ブレードの優位性について大きな議論が起こる。けれど、ブレードが(跳躍に)有利に働いているというのなら、なぜ他の選手は僕と同じ競技レベルにいないのだろう?」
義足だけではなく、アスリートとして自分自身に注目してほしいーー。この言葉からは、レームのそんな思いが垣間見える。
若い世代への期待
レームの言動から伝わってくるのは「限界に挑戦することを楽しみたい」という無垢な感情だ。その感情に「健常者」と「障がい者」という区別はない。「オリンピックとパラリンピックをより近づけることで、社会に存在するバリアを壊す。そのコネクター(橋渡し役)になりたい」。レームが繰り返し「五輪に出たい」と発言してきた理由はそこにある。
だからこそ、2014年にドイツ選手権で勝ってから、一部の選手が示した態度は彼を困惑させた。
「僕と競うことを避けるようになった選手もいて、とても難しい時期を過ごした。記録を抜かれることを恐れる気持ちも分かる。ただ、僕は彼らとメダルやお金を奪い合うとか、何かを失わせたいとか、そんなことは考えていない。別に名誉や賞に興味はない。メディアや、人づてに聞いたことではなく、直接話し合えば分かることだ。僕は、最高の場所で、力を最大限に発揮したいだけなんだ」
レームによれば、彼の考える「壁のない競い合い」は、ドイツ国内の若い世代には浸透し始めているという。
「ともに競うことを避ける選手がいるなかで、僕は積極的に(パラ陸上以外の)競技会にも参加してきた。というのも、多くの若いアスリートたちが『マルクスが試合に来るぞ!』と話していることを知ったからだ。若い選手が跳ぶ、そして僕が跳ぶ。その状況を、彼らは自然に受け入れてくれた。僕の周りで起きている問題に対して、気にしていないように見えた。だからこそ、僕は競技会に出場し続けることができたと思う。今日、“肌の色の違い”で枠を作らないように、“彼ら”と僕らパラアスリートに何も違いはない。若い世代が成長していく中で、その認識がごく普通になっていくことを願っているよ」
そして、東京へ
シーズンの締めくくりとなる今回の世界選手権を、5連覇という偉業で飾ったレーム。1週間の休養を挟み、東京パラリンピックへ向けたトレーニングに入っていく。走り幅跳びで8m台の記録を持つ唯一のパラアスリートであるレームは、ロンドン大会、リオ大会に次ぐパラリンピック3連覇が濃厚だ。
現在念頭に置いている記録は、8m50。自己記録を2センチ超える記録である。レームの中では「既に8m50のイメージはできている」という。
2018年の欧州選手権で8m48の世界記録をマークした直後、レームは「自分の限界は、今のところ見えない」と言った。その感覚は今も変わらないのだろうか。前出のネリウスコーチに尋ねると、興味深い答えが返ってきた。
「8m50、8m55と目標を設定していくことが大切です。ですから、現時点では『8m60』とは言えません。ただ一歩ずつ、階段を上がっていくだけです」
レームは、試合前の1週間は跳ぶのを止める。「試合当日、ジャンプすることに幸せを感じるため」だという。
東京パラリンピックでの男子走り幅跳び(T64)は、2020年9月2日夜の実施。東京の夜空の下、嬉々として試技に臨むレームの姿に、どれほどの人が魅了されるだろうか。
(取材・文:吉田直人)