世界のアラフォーパラアスリートに聞く「なぜ選手以外の仕事をしているの?」
「アスリート」
その響きから、選手たちは毎日練習に励み、神経の全てを競技に注ぐイメージ像がある。特に4年に一度の大会ともなれば、そこに参加する選手たちの中には、人生をかけてメダルを競う姿もあるだろう。
そこで今回はいったんそのイメージを頭から取り払い、選手の素顔に迫ろうと、選手たちにこんな質問を投げかけてみた。
「なぜ選手以外の仕事をしているのですか?」
その対象は、選手名鑑からアスリート以外の職種を持つ選手を抽出し、若手よりもアラフォー世代にターゲットを絞った。もちろん競技では上位を狙う選手たちでだ。
経済自立したアスリート
まず競技後に呼び止めたのは、日本の小栗大地と同じスノーボード・バンクドスラローム(LL1)で滑ったオーストリアのラインホルト・シェット(37)だ。彼の職業欄には「エンジニア」と書かれている。
「エンジニアといっても具体的にはどんなものを開発しているのですか?」と聞くと、企業の工場管理システムに使うプログラムを担当しているアプリケーションエンジニアだという。
「仕事で生活費を稼いで生活基盤を作っている分、選手として今何をすべきかの優先順位をはっきり決められます」。仕事に就いて経済的な基盤を作り、周りの動きに振り回されずに競技に臨めているというわけだ。
仕事に就いてからスノーボードを始めたシェットは、「趣味からアスリートになったものだよ」と言う。2001年に競技に参加して実績を積み上げてきたシェットは、今大会ではメダルの獲得を目標に掲げていた。しかし、結果は5位入賞で目標は達成できなかった。
「失敗だったのか」と尋ねると、「もし私がスノーボーダーだけしかしていなければ、失敗と言って絶望していたでしょう。でも私の場合は、仕事があるからまた次を目指す」と話し、すでに次の大会に向けて頭を切り替えているようだった。
家族重視のアスリート建築家
成田緑夢が金メダルを取ったスノーボード・バンクドスラローム(LL2)で5位だったニュージーランドのカール・マーフィー(38)は建築デザイナーの顔を持つ。
「仕事を続けて10年目になるので、他のアスリートより仕事のキャリアは長いかもしれませんね。家族と過ごす時間も多くて、今は満足した生活を送ってます」。
厳しい表情のアスリート像とはひと味違う、朗らかな表情のカールにその秘密を聞くと、「妻と子供3人で暮らしてるからかな。今は妻と子供達と長い間離れ離れになるから辛いところですよ」と頭をかく。そして、滑り終えた選手たちを見回すと、「周りにいる彼らはフルタイムのアスリートが多くて、もしかすると若い人たちはその働き方しか知らないのかもしれません。僕は自分のこのスタイルに満足してます。仕事とアスリートとの両立は可能だし、事前に早めに計画しておければ、練習も出来るし、早めに仕事をすませて休暇も取れるし、家族と過ごす時間も取れます」。
アラフォーアスリートが拓く多様な選手像
平昌冬季パラリンピックのスノーボード女子のクロス(LL1)で銀、バンクドスラロームで銅を獲得した米国のパーディー・エイミー(38)は、今大会の参加者の中でもっとも多様な仕事の顔を持つアスリートの一人だろう。パーディーの職業は、モデル、女優、服飾デザイナー、作家などマルチタレントとして活躍する。
「両足を切断する前から友人と家族とともに楽しんでいただけ」。
19歳で両足を切断し、21歳になる2000年に義足をつけ、まもなく趣味のスノーボードを再開。趣味としてスノーボードを楽しみながら、マッサージ師、モデルという仕事を始め、05年には身体に障がいがある人をスポーツに参加できるよう支援する非営利活動法人を立ち上げた。
パーディーは少しずつ競技大会に参加し始めていた当時を振り返り、「アスリートとしてパラリンピックに出るために本格的にトレーニングをするまでは自分をアスリートだとは思っていませんでした」と明かす。
仕事をしながら35歳で迎えた2014年のソチ冬季パラリンピックで銅メダルを獲得すると、16年のリオデジャネイロ夏季パラリンピックの開会式では、競技者としてではなくダンサーとして登場。両足の義足をあらわにした踊りを披露して話題に上った。そして、パーディーが出場した競技2種目の金メダリストは同国出身の22歳のブレナー・ハッカビーだった。アラフォー世代が切り拓いた道は次の世代へと引き継がれている。
こうしてインタビューを続けていくと、「アスリート」といってもその姿は十人十色。もちろんオリンピックとパラリンピック、障がいを持った時期、年齢などよって、その像は変わってくるだろうが、一律でないことは確かだ。多様な選手像は、将来のアスリートを生み出す土壌になるだろう。
(文・上垣喜寛、鈴木貫太郎)