3度目のパラリンピックは「未来のために」~パラアイスホッケー 上原大祐~
10月9日~14日、スウェーデン・エステルスンドでパラアイスホッケーの平昌パラリンピック最終予選が行われ、日本は3勝1敗で2位となり、銀メダルを獲得した2010年バンクーバーパラリンピック以来、2大会ぶりの出場を決めた。そこには今夏、代表復帰を果たしたひとりの選手がいた。上原大祐だ。7年前のバンクーバーでは準決勝のカナダ戦で決勝点を決め、大番狂わせを演じる立役者となった。そんな上原にとって、パラリンピックとはーー。そこには7年前とは違う「思い」があった。
トリノの経験がいきたバンクーバーの大金星
上原にとって、パラアイスホッケーとの運命的な出合いは、高校2年の時だった。それまで音楽を趣味とし、将来は音楽教師かトランペッターになろうと考えていた上原だが、勧められて参加したパラアイスホッケーの体験会でスレッジに乗った瞬間に衝撃が走り、「これだ!」と思ったという。それ以降、パラアイスホッケーでパラリンピックを目指すことが、上原の生活の中心となった。
パラリンピックに初めて出場したのは、2006年トリノ大会。上原には大きな自信があった。
「正直言って、戦力的には、バンクーバーの時よりも高かったと思います。とにかく自分たちに自信があって、必ずメダルは取れると信じて疑いませんでした」
実際、初戦では上原がハットトリックを取って快勝。幸先良いスタートを切ったが、最終的な結果は5位にとどまった。
「最大の要因は、気負いすぎたところにあったのかなと。大会期間中、常にチーム内には緊張感が走っていて、とてもピリピリした雰囲気がありました。自分たちは本気でメダルを取りに戦いに来たのだからと、へらへらと笑ってはダメ、ライバルチームと交流を楽しむこともダメ、というふうに厳しく言われていました。今考えると、選手たちには気の休まる時間は全くなくて、オフの日まで試合があるような感じだったんです。もう最後の方は精神的に疲れきっていた状態でした」
その反省点をいかして臨んだのが、その4年後の2010年バンクーバー大会だった。この時は、オンとオフとのメリハリが重視され、リラックスする時間もたっぷりと与えられたという。そのため、試合では選手はリフレッシュした状態で思い切りプレーすることができた。準決勝の地元カナダ戦での大金星は、「トリノでの経験がチームにあったからこそだった」と上原は語る。
「決まる」とわかっていた決勝ゴール
そのカナダ戦、決勝ゴールを決めたのが上原だった。あの時、パスを受けた瞬間、上原の頭の中では、すでにパックが相手ゴールに突き刺さる絵が描かれていたという。その背景には、開幕数カ月前にチームメイトと行なった「特訓」があった。
「年末年始、キーパーの馬島(誠:現在はパワーリフティングに転向)と2人で、毎日3時間練習したんです。僕はひたすらシュートをし、馬島はそれをひたすら受けるということを何度も何度も繰り返しました」
当時、日本は「決定力」が課題となっており、それはそのままチーム一のポイントゲッターであった上原に対する要望でもあったのだ。そのため、上原は自らのシュートの精度をさらに高めるべく、懇願してようやく承諾を得られた地元軽井沢のリンクで猛練習を決行したのだ。
「あれだけ毎日何百本もシュート練習をしたのだから、という自信がありましたし、動きも体にしみついていました。相手をギリギリまで引き寄せてくれたチームメイトとの信頼関係もありましたし、そのチームメイトからパスをもらい、最後にキーパーと1対1になった瞬間に自分がシュートを決めることはわかっていました」
上原のゴールで2ー1とリードした日本は、その後さらにもう1点を加え、優勝候補の筆頭に挙げられていた強豪カナダを3ー1で破ってみせた。日本のパラアイスホッケー史に残る大快挙を導いた上原のゴールは、偶然でもなければ奇跡でもない。チームメイトとの信頼と、そして猛練習の日々が生み出した結果だったのだ。
現役復帰の理由は「自分」ではなく「子どもたち」
しかし、決勝ではアメリカに0-2と完敗を喫し、上原にはやはり悔しさが残った。だからこそ、「4年後には」という思いがあった。しかし、その4年後は訪れなかった。2013年、日本は最終予選で敗れ、ソチ大会に出場することができなかったのだ。
ソチ後、上原の気持ちは再び「4年後」とはならなかった。自然と湧き上がってきたのは「自分はやりきったな」という思いだったという。
「確かに金メダルは取ることができていませんが、それでもバンクーバーで銀メダルを取ることができましたし、2度にわたって憧れだったアメリカのリーグでもプレーすることができました。そういう意味では、パラアイスホッケーに対して『もう、いいな』というのが素直な気持ちでした」
2014年、上原は現役引退を決意した。
その後、上原はさまざまな活動をする中、立ち上げたのは障がいのある子どもやその親をサポートし、障がいの有無に関係なく誰もが夢を持つことができる社会を目指す、NPO法人「D-SHiPS32」だ。
その活動の中で、よく聞かれるのは上原自身がプレーする姿を見たことがない、と選手としての上原を惜しむ声だったという。
「子どもたちに体験してもらう時に、ふと思うんですよね。『競技をしていない自分でいいのかな』って。自分が選手であれば、もっと子どもたちに伝えられることはあるし、プレーする姿を見せることで『スポーツって楽しそうだな』『自分の子どもにもスポーツをやらせたいな』と思ってもらえるのかなと。それに、僕を応援したいと思ってもらえれば、さらに障がい者スポーツを広められるチャンスにもなると思いました」
今年7月、一念発起して現役復帰を果たした背景には、さまざまな事情があったというが、何より大きかったのはそんな子どもたちへの思いだった。
「今、僕がパラリンピックを目指す理由は、自分のことを思ってではないんです。以前は、メダルを持ち帰りたいという思いだけでしたが、今はそうではなく、子どもたちにスポーツの楽しさを伝えたい、障がい者スポーツをもっと普及させたい、という未来に向けての思いなんです」
そんな思いを抱いて臨んだ今回の最終予選、上原はチームのために何ができるかを考え、プレーした。その姿を、子どもたちはしっかりと受け止めてくれたと思っている。
「今大会、子どもたちに初めてプレーする姿を見せることができました。夢を追うことの大切さを、言葉ではなく、実際にプレーする姿で伝えることができたことが、とても嬉しい。自分たちの力でパラリンピックの出場権を獲得したことは、応援してくれている子どもたちの未来に繋がっていくものになったと思います」
そして、こう続けた。
「ただ、自分自身のレベルはまだまだ。平昌では、『やっぱり世界の大祐だ』と世界から認めてもらえるように、残り5カ月、自分にできることをしっかりとやっていきたいと思っています」
来年3月、上原は子どもたちへの未来を思い、3度目のパラリンピックに挑むーー。
(文・斎藤寿子)