「甲子園」から「パラ」へ 新たな目標を見つけた高橋峻也
大会に出場するたびに、自己記録を更新し続けている「新星」がいる。高橋峻也。昨年12月からパラ陸上の世界に入ったやり投げの選手だ。9月23、24日に行われた国内最高峰のパラ陸上競技大会「2017ジャパンパラ陸上」、高橋は5本目で、2カ月前に樹立したばかりの自己記録を1m71上回る45.79mをマーク。自身の「伸びしろ」に期待を寄せるように、「今、やり投げが楽しい」と答えたその表情は、充実感に満ち溢れていた。
「カーブのように」して投げた「快投」
小雨が降り、肌寒かった前日とは打って変わり、大会2日目の24日、「とうほう・みんなのスタジアム」(福島県営あづま陸上競技場)には、熱い日差しが降り注いでいた。
13時。高橋のクラスF46を含む男子やり投げが始まった。1本目。高く上がった槍は、40mライン手前に突き刺さった。1本目からまずまずの投てきかと思われたが、「ファウル」を意味する赤旗があがった。気合いが入り助走に勢いがつきすぎたのか、投げる際の踏み切りの足がスターティングラインを越えてしまったのだ。それでも2本目以降は、39m55、41m21、38m71と、確実に記録を残していった。
しかし、彼の投てきを見ていて、ひとつ気になることがあった。それまで4本すべての槍が、極端に左方向に流れていることだった。そのために距離が稼ぐことができていなかったのだ。
その原因を、高橋は「リリースの問題。野球で言えば、シュートしているということ」と述べた。その言葉から推測すれば、手から槍を離すタイミングや手首の角度などからくる課題なのだろう。コーチには「カーブを投げるように」と指導されているという。
その「カーブを投げるように」して槍を離すことができたのが、5本目だったに違いない。はたから見ても、槍が離れるタイミングがそれまでとは違うよう見えた。すると、槍はほぼ真っ直ぐに飛び、40mラインのはるか向こうへと突き刺さった。
「45m79」
この日の「快投」は、堂々の自己新記録をとなった。
「何もなかった」将来に光を与えた1本の電話
高橋は、高校まで野球一筋だった。そんな彼が、パラ陸上の世界に足を踏み入れたきっかけは何だったのか。
高橋には、右腕に障がいがある。しかし小学生の時、父親との特訓によって、捕球した左のグラブを瞬時に外し、左手で送球するという「グラブスイッチ」の技を習得。高校3年の夏には、ベンチ入りメンバーを果たし、甲子園の土を踏んだ。
しかし、高校卒業後の進路について、高橋にはこれといったものが見つけられずにいた。野球を続けることは考えておらず、「専門学校に行くか、就職するかという感じだった」という。
そんな時、思いがけないところから高橋に連絡が入った。昨年10月、鳥取県の障がい者スポーツ関係者から電話があったのだ。聞けば、高橋が甲子園に出場した記事を読んだ人物から「陸上に挑戦してみないか」と誘いの声があがっているという。日本パラ陸上競技連盟の理事長を務め、日本福祉大学スポーツ科学部准教授の、三井利仁だった。2020年東京パラリンピックを見据えたスカウトだったことは想像に難くない。
高橋は、もともとパラリンピックの存在について、知識としてはあったという。だが、自分には「無関係」だと考えていた。甲子園を目指していた彼にとっては当然である。まさか、自分がその世界に足を踏み入れるとは、想像すらしていなかった。
そのため、相当な驚きがあったはずだ。しかし、その半面、高橋には込み上げてくるものがあった。新たな目標を見つけることができた喜びだった。
「話をいただいた時は、将来のことが何もなかった状態だったので、新しい目標ができたことが素直に嬉しかったです」
大会に出場し始めて数カ月のうちに、高橋の記録は伸び続けている。初めて出場した5月の「東海学生陸上競技対校選手権大会」では約31mだった飛距離は、6月の「日本パラ陸上競技選手権大会」では41.60m、7月の「関東パラ陸上競技大会」では44.08m、そして今大会では45.79mにまで伸びた。
もちろん、世界と渡り合うには、まだまだである。しかし、絶え間ない「工夫」と「努力」、そして50m6秒3で駆け抜けるだけの運動能力で、「甲子園出場」という目標を達成させた彼のことだ。いつの日か、世界への重い扉を開ける日を信じて、一歩一歩進み続けていくに違いない。
(文・斎藤寿子)