代表に「なりたい」ではなく「ならなければいけない」という覚悟 ~車椅子バスケ・森谷幸生~
「森谷幸生」。彼の名を初めて耳にしたのは、昨年4月の関東カップのことだ。所属するNO EXCUSEのマネジャーから「注目の新人」の一人として挙げられた選手だった。そして、当時同チームの指揮官を務めていた及川晋平現日本代表ヘッドコーチ(HC)からも「チームの今後を担う選手として成長を期待している若手」の一人に挙げられていた。だが、その時はまだチームにフィットしてないように感じられた。実は大会直前に右足の人工関節が折れるというアクシデントに見舞われ、その時は本格的に練習復帰して間もない時期で、体力的にも精神的にも、実力を発揮するには至っていなかったのだ。ようやく彼本来の姿を見ることができたのは、その1カ月後のことだった――。
バスケ人生をかけたフリースロー
2016年5月の日本選手権。森谷は、初戦から準決勝までの3試合でスターティングメンバーの一人に抜擢された。それは、「全員が戦力」という方針のもとでチーム作りを行なっている中でも、彼が主力の一人として認められていたことの何よりの証だったに違いなかった。実際に森谷のプレーを見ても、そこには積極的にゴールに向かう姿があった。そして、森谷にとってその日本選手権は次のステージに向かう上での大きな「転機」となっていた。
大会2日目の準決勝、相手は史上初の8連覇を狙う強豪の宮城MAX。NO EXCUSEにとっては、最大のヤマ場であった。その大一番の試合でスタメンに抜擢された森谷は、今までに感じたことのないほどの緊張感に包まれていた。体も心もガチガチにかたまっていた。スタメン発表の折、アナウンサーが「もりやゆきたか」を「もりたにこうせい」と読み間違えたことでチームに笑いが生じ、少しだけ緊張が緩んだものの、初めて経験する日本選手権の準決勝は、森谷にとってはまさに「大舞台」であることに変わりはなかった。
試合は、宮城MAXのエース藤本怜央がアウトサイドからのシュートを次々と決めてみせてリードを奪うと、負けじとNO EXCUSEのエース香西宏昭もスリーポイントなどで応戦するという、日本を代表する2人のシュート合戦の模様となった。
そんな中、藤本と香西以外で初めてシュートを決めたのが、森谷だった。第1クオーター中盤、シュートチャンスに宮城MAXの豊島英からファウルを受け、森谷に2本のフリースローが与えられた。その時、彼の頭によぎったのは4年前の苦い思い出だった――。
2013年4月、U23日本代表としてドバイで行なわれた国際大会に出場した森谷はある試合で、フリースローを11本与えられながら、わずか1本しか入れることができなかった。
「相手にしてみたら簡単ですよね。いくら高さがあって、インサイドでいいポジションを取っても、どうせフリースローが入らないんだから、ファウルで止めておけばいい、というふうに思われていたのだと思います。それが悔しくて悔して……。そんな思いはもう二度としたくないと思って、その後、ずっとフリースローの練習を大事にしてきたんです」
そんな中で巡ってきた大舞台でのフリースロー。森谷は自らにプレッシャーをかけていた。
「ふと周りをみたら、予想以上に観客の数がすごくて、ビックリしたんです。しかも、決勝に行くかどうか、あの宮城MAXとの準決勝という大舞台。そんなすごい試合に、僕はスタメンに出してもらっている。そう考えたら、絶対にこのフリースローは2本入れなくちゃいけないと思いました。ここで外すくらいの選手なら、この先、こういう大舞台に立つ資格はないなと」
ボールを支える左手が小刻みに震え、1本目はわずかに手元に狂いが生じた。一瞬、「外れた……」と思ったが、リングでの当たり所が良く、ボールはネットの中へと入っていった。森谷は思わず、ふぅっと大きく息を吐いた。そして、「大事なのは次だ」と、再びプレッシャーをかけて2本目に臨んだ。今度はボールが手を離れた瞬間、「よし!」という手応えがあった。実際、ボールはきれいな弧を描き、スパッと心地いい音を響かせながら、ネットに吸い込まれていった。
「ボールが入ったのを見届けた時、ようやく自分がスタートに立った気がしました」
それは、その試合の「スタート」というだけでなく、車椅子バスケ人生におけるもう一段上のステージの「スタート」でもあった。
「希望の光」となった及川晋平という存在
「何かしなければ……」
森谷がそんな気持ちに駆られたのは、14歳の時に患った骨のガンである骨肉腫の2度目の転移が見つかった、18歳の秋のことだった。
その時、森谷が手にとったのは、それまで彼が避け続けてきた漫画『リアル』だった。
「14歳の時から、『リアル』は知ってはいました。でも、あえて読もうとしなかったんです。主人公が僕と同じ病気だというので、辛いこと、苦しいことが描かれてあったら……と思うと、すごく怖かった。この先、どういうことが待ち受けているのか、知るのが怖かったんです」
だが、18歳で2度目の転移が見つかった時、森谷は「このまま何もせずに人生を終わらせたくない」と思った。だからこそ、あえて避けてきた『リアル』を読むことで、自らの人生を見つめ直そうとしたのだという。
読んでみると、『リアル』に描かれていた主人公「戸川清春」は、まさに自分そのものだった。もともと幼少時代にはピアノを習っていたこと。母親を亡くし、父子家庭で育ったこと。そして、14歳で骨肉腫と診断されたこと……。森谷は、清春を自分に重ね合わせ、夢中になって読んだ。
そのうち、清春のモデルとなった人物が実際に存在していることを知った森谷は、すぐにインターネットで探し始めた。見つけたのは、そのモデルが書き綴っていたブログだった。そこに書かれていた「言葉」に、森谷は強く引き込まれていった。
「14歳の時、僕は20歳の自分を想像することができませんでした。入院中、同じ病気だった同年代の子が亡くなっていく姿も見ていましたから……。でも、その人のブログには、自分が3度の転移を経験し、それでもこうやって生きて、車椅子バスケの日本代表にもなった、ということが書かれてありました。その言葉に、僕はすごく勇気をもらったんです」
14歳の4月、骨肉腫と診断された森谷は手術をし、1年近くも抗がん剤治療をした。その年の11月、ようやく退院できると思っていた矢先、念のためにと行なわれた検査で転移が見つかったのだ。その時のショックはあまりにも大きく、とても将来のことなど考えられなかった。
そして18歳で、再び転移が見つかった時、「これはもしかしたら、終わりのない闘いなのかもしれない」と思った。しかし、清春のモデルとなった人物のブログを読んだ時、その不安から少し解放され、こう思えた。
「自分にも、この人のような人生を送ることができるのかもしれない」
その人物こそ、森谷がNO EXCUSEに入るきっかけをつくり、そして今彼が目指している日本代表の指揮官である及川HCだった。
及川HCはこう語る。
「僕自身、高校時代は全く将来が見えなかったんです。何歳まで生きれるのか、仕事はできるのか、結婚はできるのか……。何も示してくれるものがなくて、とても不安の日々を送りました。だから、僕の人生を書くことで同じ病気で闘っている人に『あぁ、そういう人生もあるんだ』と感じてもらえたらと思って、ブログを始めたんです。なので、森谷がそんなふうに感じてくれていたんだったら、本当に嬉しいことですよね」
当時の森谷にとって、及川の存在は、大げさでも何でもなく、まさに「希望の光」だった。
バスケ人生の礎を築いた2人の存在
及川HCのブログを読んだことをきっかけに、森谷は車椅子バスケを始めた。それから7年。今や成長著しい若手のひとりとして着実にステップアップしている森谷だが、ここに至るまでには多くの「支え」があったことは言うまでもない。なかでも、2人の人物を欠かすことはできない。
ひとりは、森谷が車椅子バスケを始めたばかりの頃、基礎を教えてくれた豊島理だ。実は彼は、ロンドン、リオデジャネイロと2大会連続でパラリンピックに出場した豊島英のおじでもある。当時の森谷は、そのことを知らなかったのだが、一番最初に所属したチームに豊島(理)が在籍していたことが縁で、チーム練習日以外にも個別で基礎を教えてもらった。そればかりか、「オマエになら投資してもいい」と、森谷の断りを振り切って、30万円もする新品の競技用車椅子を買ってくれたのだという。
森谷は言う。
「入院中ずっと車椅子に乗っていたし、最初は車椅子バスケも簡単にできるようになるだろう、と思っていました。ところが、全然できなかったんです。当時は生意気盛りだったと思うんですけど、そんな僕に付き合って練習を見てくれたのが理さんでした。理さんがいなかったら、僕のバスケ人生は始まっていなかったと思います」
そして、もうひとりは大学時代に所属したチーム「ROOTs」の橘香織HC(現女子日本代表HC)だ。ROOTsは、橘HCが勤める茨城県立医療大学のチームで、「日本車椅子バスケットボール大学連盟」に加入している。メンバーはほとんど同大に通う学生で、障がいの有無に関係なく学生は所属することができる。千葉の大学に通っていた森谷は、当時唯一の外部学生としてチームに所属していた。
それまでなんとなくでプレーしてきた森谷だったが、ROOTsでは車椅子バスケの特性や理論を丁寧に教えてもらったという。そして、もうひとつ、橘HCからは大事なことに気付かせてもらった。「橘さんからは叱られた記憶しかない(笑)」と言う森谷だが、最も記憶に残っているのが、2年になったばかりの頃に橘HCに言われたことだった。
「2年になってすぐの頃、橘さんに『森谷、このチームで誰が一番上手いと思う?』と聞かれたんです。ちょうどその頃、新人戦でチームが優勝したのですが、僕はMVPをいただいていたこともあって、自信がありました。だから迷うことなく『僕だと思います』と答えました。そしたら、橘さんはこう言われたんです。『だったら、チームメイトをもっと良くしようと考えたことはある?』と。確かに、それまでの僕は自分さえいいプレーをしていれば、『これだけやっているんだからいいでしょ』というような考えを持っていました。でも、橘さんに『上手いあなたがチームを良くすれば、もっとチームは強くなるんじゃない?』と言われて、ハッとさせられたんです」
チームスポーツの極意とは何なのか。周囲のことを考え、感じながらプレーすることの重要性を、森谷は橘HCから教わったのだ。
代表への覚悟の先にある思い
そんな2人の指導を経て、2015年夏にNO EXCUSEに加入した森谷は今、少しずつ階段を昇っている。その先にあるのは、「日本代表に入り、パラリンピックに出場する」という目標だ。
昨年12月、リオデジャネイロパラリンピック後に初めて行われた日本代表の選考合宿に森谷は初めて呼ばれた。結果的には、2017年の強化指定選手24人からは落選したが、意外にも森谷の表情は明るい。なぜなら、そこで掴んだ確かな手応えがあるからだ。
「合宿は、本当にボロボロでした。代表選考という独特の雰囲気があり、その中で求められる強度に対して、僕は体力も技術も全く不足していることを痛感させられました。ただ、追い付けないほどの差ではないなとも思いました。NO EXCUSEに入って、及川さんから指導してもらったことを続けていけば、必ず到達できるという確信を得ることができた。だから、今回の合宿についてはショックを受けたというよりは、次に向けて『よし、やるぞ』という気持ちの方が強いんです」
一方、及川HCは現在の森谷をこう見ている。
「昨年末くらいからかな、彼が少しずついい方向に変わり始めてきているなぁと感じるようになったのは。やっぱり、選考合宿で何か肌で感じたものがあったんでしょうね。もちろん、代表に入るような選手と比べれば、彼がやっていることはまだまだ。それでも、能力もセンスもある選手だということは間違いありません。日本にとっても、彼のような高さのある選手をどう育てるかということは大きな課題。そういう意味でも、彼にはこれから成長してくれることを期待していますし、ようやく今、そのステージに近づきつつあるかなと感じています。もう少し時間はかかると思いますが、あと数年努力し続けることができれば、厚みのあるいい選手になってくれると思います」
そして、こう続けた。
「高みを目指すには、それ相当の覚悟が必要です。途中で挫折する選手はたくさんいる。でも、彼はやれる選手じゃないかなと。骨肉腫を患った人は、計り知れないショックを受けて、それを乗り越えてきている。だから、精神的に強いですからね」
森谷にはまだ日本代表への道が明確に見えているわけではない。遠い先であることは間違いなく、決して簡単な道のりではないことも十分にわかっている。しかし、それでも森谷は目指す覚悟を決めている。それは「日本代表になりたい」ではなく「ならなければいけない」というほどの強いものだ。その背景には、こんな思いがある。
「僕が晋平さんのブログを読んで『自分もこんな人生を送れるかもしれない』と勇気をもらったように、今度は僕が、同じように苦しんでいる子どもたちに『こういう人生もあるんだよ』というものを示してあげられるような存在になれたらと思っているんです」
森谷の車椅子バスケ人生には、及川HCから受け継ぎ、子どもたちへと伝えたい「未来」が詰まっている。
<森谷幸生(もりや・ゆきたか)>
1992年5月4日、福島県生まれ。中学時代にはハンドボール部に所属し、他校にスカウトされるほど高い能力を見せていた。しかし、2年の春に骨肉腫を発症し入院する。退院間近と思われていた同年11月に1度目の転移が見つかり、治療を続けた。18歳の時に2度目の転移が見つかる。これをきっかけに読んだ漫画『リアル』や及川晋平HCのブログに影響を受け、車椅子バスケットボールを始める。「『TEAM EARTH」(福島)、「ROOTs」(茨城県立医療大学)を経て、2015年9月に現在所属する「NO EXCUSE」(東京)に加入。昨年の日本選手権では準決勝までの3試合でスタメンに抜擢され、チームに貢献した。
(文・斎藤寿子)