車椅子レーサー渡辺勝、リオ選考で実感した「結果がすべて」
4年前、「世界一になる」と決意した渡辺勝。2013年、初めて出場したIPC陸上競技世界選手権では10000mで銀メダルを獲得し、急成長の若き車いすランナーとして注目の存在となった。2014年からはトラック競技の中距離をメインにし、「パラリンピックで勝つこと」を目標としてきた。そんな彼にとって、リオデジャネイロパラリンピックに出場することは最低条件であった。しかし、リオへの扉は開かれなかった。
「自分には、パラリンピックに出場するための力がなかった、ということです。改めて、結果が全ての世界なんだな、ということを実感しました」
厳しい現実を突きつけられたリオの代表選考は、果たして24歳のランナーに何をもたらしたのか。渡辺にインタビューした。
必要だった「ひとりでもタイムを出す力」
日本のパラ陸上におけるリオの代表選考は、2016年6月4、5日に行われたジャパンパラ競技大会までの成績や記録、世界ランキングによって行われた。2015年に思うような結果を残すことができなかった渡辺にとって、今年の年明けからの約半年間は最後のチャンスとなっていた。特に、彼が照準を合わせていたのは、5月のスイス遠征だった。そこで自己ベスト更新を狙い、ひとつでも世界ランキングを上げようと考えていた。
スイスに入る前、渡辺には確かな手応えと自信があった。
「これなら絶対にいける」
心身のコンディションも、新調し改良を重ねてきたレーサーの状態も、すべて完璧と思えるほど、調子の良さを感じていた。
しかし、スイスでの結果は思わしくなかった。2大会で計7レースに出場したが、一度も自己ベストを更新することはできなかった。いったい、何があったのか――。
「結局は、自分に力がなかった、ということです」
渡辺は、そうきっぱりと言い切った。
「あの時の僕は、持っている力をすべて出すための準備を整えて、レースに挑みました。今、振り返っても100%の状態に仕上がっていたと思います。でも、それだけでは足りなかったんです」
車いす陸上のレースでは、選手同士の複雑な駆け引きが行われている。どこで前に出るのか、どこまで後方に下がっているのか。トラックの内側を走るのか、外側から前を狙うのか。アタックをかけるタイミングや、走るポジショニングなど、実にさまざまな要素が絡みあっている。そうした中での勝負に対して、渡辺には自信があった。しかし、代表選考を考えた場合には、もうひとつ重要な力が必要とされていた。それは、レース展開に左右されることなく、タイムを狙いにいく力だった。
渡辺は言う。
「スイスでは自己ベストを出して、ひとつでも世界ランキングを上げることが最大の目的でした。そうであるなら、たとえ他の選手のペースが落ちても、一緒に落ちてしまうのではなくて、ひとりでも前を走り切ってタイムを出しに行かなければいけなかったんです。でも、その時の僕には、自分ひとりでタイムを出す力がなかった。今思えば、海外のトップ選手とローテーションしながらという中で引き上げてもらってタイムを出そう、という人任せに考えていた部分があったのだと思います」
スイスでのレースは、あいにくの雨模様ということもあってか、予想以上にスローペースとなった。また、既にリオ代表の当確圏内であったり、タイムや世界ランキングではなく順位による選考の国・地域の選手は、無理に好タイムを出す必要はなく、最終的に勝つレースをすれば良かった。予想以上にペースが上がらなかった要因は、そんなところにあったのかもしれない。しかし、世界ランキングを上げる必要があった渡辺だけは、たとえひとりでもタイムを狙う走りをしなければならなかった。しかし当時、その力はなかった。渡辺にとって、それがスイスでの「すべて」だったーー。
パラ出場に必要なのは「記録へのこだわり」
「ダメだったか……」
あまりのショックに、渡辺は帰国後、何に対してもやる気が起きず、練習にも身が入らなかった。
「練習をしていても、『自分はいったい何のためにやっているんだろう』と思ってしまったり……。とにかく、この時期は本当に辛かったです」
こうして迎えた7月4日、日本パラ陸上競技連盟の公式サイトに、リオ代表推薦選手が発表された。既に覚悟していた渡辺は、自らサイトを見ることはしなかった。それでも人づてに結果を耳にすると、ショックは小さくはなかった。
「そうだろうな、とは思いつつも、やっぱり気持ちは沈みました。『とにかく、どんなことをしてでも、絶対にリオに出るんだ』という思いでずっとやってきましたから……」
気持ちを整理するには、時間が必要だった。その中で、時には「これまでの4年間が間違いだったのか」と思ってしまうこともあった。しかし、考えれば考えるほど、4年間の自分に後悔は微塵も感じられなかった。
「トレーニング、ケア、食事、休息……すべて競技のことを第一に考えて毎日を過ごしてきました。『あの時、手を抜いてしまった』というのは一度もないし、その瞬間、その瞬間、常にその時の全てをぶつけてきた。それに関しては、自信を持って言えるなと思えたんです。それでダメだったのだから、これまでのことをあれこれ考えるのではなく、前に進もうと。そう思えたら、スッと次に向けてスタートを切ることができたんです」
初めてのパラリンピック選考を終えて、渡辺には思うことがあった。それは、「結果」に対する考え方だ。
「僕はこれまで勝負に勝ちたい、と思っていたし、勝つことに喜びを感じていました。だから、スイス遠征以前は、記録を出すということには、あまり意識がなかったんです。でも、パラリンピックへの出場権を得るには、今後は記録の方にもっとこだわっていかなければいけないなということがわかりました」
苦しみを経た先にあるパラ出場
10月30日に行われた大分国際車いすマラソンでは、早速、その第一歩を踏み出した。ハーフの部に出場した渡辺は、スタートからひとり飛び出し、大会新記録を狙いに行った。結果は2位に約2分半の大差をつけての圧勝で、昨年に続く連覇を果たし、見事大会新記録を樹立した。しかし、それでも渡辺には喜びよりも、自らが目標としたタイムに届かなかったことへの悔しさが胸の内を覆っていた。
「周りとの駆け引きを楽しむよりも、タイムを気にしてメーターを見ながら、ただただ走るというのは、しんどかったです。でも、そういうことをしていかなければ、パラリンピックに行くことはできない。勝負するという楽しさを得るためには、まずはこういう苦しいことをしなければならないということなのだと思います」
4年前の今頃、渡辺はリオに向けて、それこそ脇目も振らず、まっしぐらに突き進み始めていた。しかし、今は違う。「世界一になる」という目標こそ、まったくブレてはいないものの、4年後の東京に対しては、じっくりと冷静に考えようとしている。その理由を、渡辺はこう語る。
「今の僕は一度、選考に漏れた立場ですから、やはりパラリンピックへの捉え方というのは、4年前とは違います。最終目標は変わっていませんが、今すぐ『東京で勝ちます』とは、簡単に言うことはできません」
今後について、はっきりとした答えは出てはいない。今はまだ、頭も心も迷いの中にある。しかし、こういう時期こそが、成長への糧となるはずだ。
「彼はきっと強くなる」――真っ直ぐな渡辺の目が、そう思わせてくれた。
<渡辺勝(わたなべ・しょう)>
1991年11月23日、福岡県生まれ。中学、高校時代は野球部に所属。高校卒業後、社会人1年目の2001年1月に交通事故で脊椎を損傷し、車いす生活となる。同年8月から陸上を始め、2カ月後の10月には10kmのレースに出場した。2013年7月、IPC陸上競技世界選手権に出場し、10000mで銀メダルを獲得。13年4月、凸版印刷に入社し、翌年7月より「スポーツ専従社員」となる。2015、2016年には大分国際車いすマラソン(ハーフの部)で連覇を達成した。
(文・斎藤寿子)