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パラコラム

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「4度目のパラリンピックで掴みたい“やりきった証”」~車椅子バスケ・藤井新悟~

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 人知れず「今度こそは」と強い思いを抱ている選手がいる。車椅子バスケットボール男子日本代表の藤井新悟だ。藤井には、アテネ、北京、ロンドンと過去3度出場したパラリンピックでは掴むことができなかったものがある――。

リオですべてをやり切ったという思いで、日本に帰ってきたいという藤井(撮影:越智貴雄)

リオですべてをやり切ったという思いで、日本に帰ってきたいという藤井(撮影:越智貴雄)

自らの可能性を感じさせてくれた新HCの存在

「もう、代表としてはいいかな……」
 2012年、自身3度目のパラリンピックを終えた藤井は、代表生活に終止符を打とうと考えていた。
「個人的には、アテネ、北京と過去2大会と比べて、最も力を出すことのできた大会でした。でも、チームは決勝トーナメントにも行けず、アテネ、北京を下回る9位。『あぁ、代表としてはここらが潮時かな』と思いました」

 やるべきことはすべてやった。それで結果が出なかったのだから、仕方がない――藤井は「これが自分の限界」だと考えた。

 そんな彼が、再び「日本代表として世界に挑みたい」と思うようになったのは、ある人物からの指導がきっかけだった。2013年に男子日本代表チームの指揮官に就任した及川晋平ヘッドコーチ(HC)だ。

「及川HCは、単に『ああしろ、こうしろ』ではなく、一つ一つのプレーに対して、なぜそうすることが必要なのか、という根拠を、しっかりと専門的に教えてくれる。だからこそ、自分がやってきたことは間違いではなかったということもわかりましたし、『もっと知識を増やせば、さらにプレーの質が上がるに違いない』と思えたんです」

 そうして迎えた4度目のパラリンピック。藤井にはどうしてもやり遂げたいことがある。過去3大会のパラリンピックで叶えることができなかった「達成感」だ。

「今回のパラリンピックでは、『やり切った』という証が欲しい。それがどういう形かはわからないけれど、今度こそ、あやふやな気持ちではなく、すべてをやり切ったという思いで日本に帰ってきたいと思っています」

リオですべてをやり切ったという思いで、日本に帰ってきたいという藤井(撮影:越智貴雄)

リオですべてをやり切ったという思いで、日本に帰ってきたいという藤井(撮影:越智貴雄)

「こんなのバスケじゃない」から始まった車椅子バスケ

 今や日本を代表する車椅子バスケプレーヤーとなった藤井だが、最初は車椅子バスケを「バスケ」と認めようとしなかった。彼は中学、高校とバスケットボール部に所属し、主力として活躍。就職も「バスケ部がある企業」を選ぶほど、彼の人生には常にバスケの存在があった。そんな彼が、スキー事故で車椅子生活となり車椅子バスケに出合ったのは19歳の時だった。

「初めて見た時、『すごい』のひと言でした。もうスピードとか、車椅子の動きじゃないと思いました」

 しかし、実際にやってみると、予想以上に難しかった。車椅子操作ひとつとっても自在に動かすことができず、そのうえ漕ぎながらドリブルをし、パスをし、そして一般のバスケと同じ高さのゴールにボールを入れることなど、当時の藤井にはとても無理だった。

 そんな不甲斐ない自分が、情けなく、嫌だった。
「なんで今までバスケをしてきた自分が、経験者でもない、こんなおじさんにまで負けなくちゃいけないんだ。こんなのオレがやってきたバスケじゃない」

 それが、できない自分への言い訳であり、そこから逃げることで楽になろうとしていることに、藤井は気づいていた。しかし、それでもその時は、車椅子バスケを否定することでしか、気持ちを整理することができなかったのだ。

 そんな彼の気持ちに変化が生じたのは、初めて日本選手権を目にした時だった。
「全国の選手を見た時に、『うわっ、こんなに上手い選手がいるのか』と驚きました。と同時に、『オレは一体何をしているんだろう。ちゃんと努力もせずに、ただできないことを車椅子バスケのせいにして……すっげぇ、カッコ悪いだけじゃん』と、自分を見つめ直したんです」

 その後、藤井の練習への姿勢はガラリと変わった。もともと高い能力を有するプレーヤーだけに、みるみるうちに上達していった。

 車椅子バスケを始めて今年で18年。38歳となった藤井は今、「これまでで一番、バスケを楽しんでいる自分」を感じている。
「もちろん、身体的な面では『昔の方が動けていたな』と思いますし、周りから見れば、その時が一番輝いていた時だと映っているのかもしれません。でも、不思議と自分の中では、楽しさのピークは今が一番と思えるんです」

 代表のユニフォームを着て戦う4度目のパラリンピックは、果たして藤井に何をもたらすのか――。

<藤井新悟(ふじい・しんご)>

1978年1月2日、秋田県生まれ。宮城マックス所属。中学、高校とバスケットボール部に所属。社会人1年目の冬、スキー事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。入院中に車椅子バスケットボールを知り、1999年に宮城マックスに加入。2008年、日本選手権での初優勝に貢献し、自身もMVPに輝く。以来、チームは2016年まで日本選手権8連覇中(2011年は東日本大震災のため中止)。2000年に日本代表デビューを果たし、2004年アテネパラリンピックに初出場。2008年北京、2012年ロンドンではキャプテンとしてチームを牽引した。リオは4度目の出場となる。

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