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「障害者になってよかった」伝説のスノーボーダー・岡本圭司が語る絶望と復活 / パラスポーツ進化論

今年3月開催された北京冬季パラリンピックに出場し、スノーボードクロスで8位に入った、岡本圭司選手(撮影:越智貴雄)

 パラスポーツで活躍するアスリートを取材していると、何のためらいもなく「障害者になってよかった」と語る選手がいて、驚かされることがある。事故や病気によって手や足にマヒが残った人もいれば、切断した人もいる。目が見えなくなった人もいる。それでも、パラスポーツを通じて世界を舞台に活躍するアスリートになれば、障害を肯定的に捉える強い精神を得られるのだろうか。そんなことを以前から感じていた。

滑走する岡本圭司選手。2022年2月(撮影:越智貴雄/SPORTRAIT)

 しかし、北京パラリンピックのスノーボード男子日本代表の岡本圭司(牛乳石鹸共進社)の話を聞いて、そんな考え方は先入観にまみれた思い込みでしかなかったことに気づかされた。40歳のスノーボーダーは、こう言うのだ。

「ハンディキャップがあるのがいいんですよ。限界を超えることが楽しい。僕は、同じ障害のクラス(下肢障害LL2)の中では障害が重い方で、右足の股関節の付け根の部分からほとんど動かない。義足の選手の方が足に力が入るんですよね。なので、力の入る選手にどうやったら勝てるのか。それを考えることは大変なんですけど、今は何をやっても楽しい」

 岡本がこう話すことには、特別の重みがある。なにしろ、2015年に滑走中の事故で脊髄損傷の大ケガを負う前から日本を代表するトッププロスノーボーダーだった。2007年に東京ドームで開かれた国際大会で日本人トップの5位に入るなど、日本のスノーボード界を牽引してきた。人々は、岡本のことを敬愛を込めて「レジェンド」と呼ぶ。

今年3月開催された北京冬季パラリンピックに出場した岡本圭司選手(撮影:越智貴雄)

 もちろん、今に至るまでの道のりは険しいものだった。長野県の山奥で滑走中の撮影をしていた時に10メートルの高さの崖から転落し、全身に15カ所の骨折をして下半身が動けなくなった時は、絶望に陥った。医師からは「車いす生活を覚悟してください。歩くことができても短い距離しか難しい」と言われたという。

 お見舞いに来るスノーボード仲間には「大丈夫、大丈夫」と気丈に見せていたが、毎晩のように「死にたい」と考えていた。

「僕は28歳の時に競技の大会に出ることはやめて、映像などを通じてスノーボードの魅力を伝える表現の世界に入ったんですが、それが自分のなかでピッタリとはまっていました。33歳でケガをした時は、メンタルとフィジカルが合わさって、調子が良すぎるほどでした。それだけに、ケガをしてからは前を向きたいと思っても、なかなかできなかった」

それでも、回復を願う妻や友人、ファンの応援が再びスノーボーダーとしての道を歩ませることになる。

「自分としては、肉体を鍛えることで精神も強くなっていると勝手に思っていた。それが、ケガをしたら絶望に陥ってしまった。今考えると、精神を鍛えることがまったくできていなかったんですね。家族や仲間、支えてくれる人たちに感謝すること。いろんなことに気づかされて、いつの間にか死ぬほどリハビリをするようになっていました」

滑走する岡本選手。2022年2月(撮影:越智貴雄/SPORTRAIT)

 事故後、初めてスノーボードに乗るまで1年かかった。夜に眠りにつくと、夢ではスノーボードが毎日のように出てきたという。ただ、スノーボードを再開しても、以前のように技を決められるわけではない。簡単な技でも無事に決まったら大きく喜ぶ周囲とは裏腹に、満たされないものがあった。その転機となったのが、パラスノーボードとの出会いだった。

「2018年に、障害者のスノーボードの大会に出ることになったんです。正直、障害者のスノーボードって、まったく興味がなかった。出場しても、元プロの自分が圧倒的な強さで優勝するつもりでした。ところが、いざ出てみるとまったく歯が立たなかった。同じ障害者に負けたことが悔しかった。でも、『それが面白いじゃん』って思った」

 パラスポーツの選手は、誰もが自分の限界を克服するためにトレーニングを繰り返す。それが、19歳の時に近所のお兄さんに憧れてスノーボードを始めた時の気持ちに戻らせてくれた。28歳の時に競技大会への出場を辞めたのは、スノーボーダーとして結果ばかりを求めることに嫌気がさしたからだった。それが、パラスノーボーダーとして再び「勝敗」にこだわるようになった。大きな事故を経て競技大会に復帰した今、以前とはまったく違う気持ちで競技に挑戦している。

「ケガをした後、しばらくは昔のスノーボーダーとしての自分の姿と比べてしまっていたんですよね。でもパラスノーボードをやり始めてから、それがなくなった。純粋に、スノーボードの板が自分の体に近づいていく。40歳で障害があっても世界を相手に闘える。『人生、捨てたものじゃないな』と思うんです」

岡本選手のレントゲン写真とボードを合成した1枚。背骨に人工骨がかすかに見える程度で、事故当時に破裂した骨などは、しっかり繋がっているように見える(撮影:越智貴雄)

 今の滑りを見ても、右足にまひがあるようにはとても見えない。日常で歩く姿も違和感はない。なぜ、ここまでの回復が可能になったのか。帝京大学病院整形外科の石井桂輔医師に、岡本が滑走する姿(動画)を見てもらった。

「岡本選手は第3腰椎の損傷で、ひざを伸ばす神経とその先にまひが残るものです。病院のリハビリでは歩けるまでは担当しますが、そこから先は患者の努力次第。その意味では、岡本選手がここまで回復しているのは凄いことで、同じ障害の患者に希望を与えるものです。リハビリは継続し続けることが重要なのですが、人間の『回復させる能力』を最大限に発揮させているといえるでしょう」

 石井医師によると。厳しいリハビリを続けられる人には共通した特徴があるという。

「家族や大切な人など『誰かのため』にリハビリしている患者は、頑張れる人が多い。それでも、ここまで回復していることは、並の精神力でできることではありません」

写真:挑戦を続ける岡本圭司選手(撮影:越智貴雄/SPORTRAIT)

 挑戦は今も続く。

 パラスノーボード(スノーボードクロス・バンクドスロラーム)では、スピードが重視されるため近年は体重のあるパワー型の選手が好成績を収めている。技術ではトップクラスでも、北京パラリンピックでは体重の差を見せつけられた。そのため、今は10kgの増量を目指している。40歳という「不惑」の年齢を超えてからの肉体改造は過酷に思えるが、それでも、トレーニング中の今の姿はとても楽しそうだ。肉体のハンディキャップを精神力で超え、スノーボードの楽しさを発信し続ける。「今考えれば、以前は家族のこともあんまり考えてなかった」と自嘲気味に話すが、これまでの人生で今が最も充実していると感じている。日本スノーボード界のレジェンドは、また新たなスタート地点に立った。そんな話をしていた時に出たのが、この言葉だった。

「僕、障害者になってよかったと思ってるんです」

文:土佐豪史

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