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パリ・パラ選手村で日本人ボランティアが製作したピンバッジが人気急上昇!デザインを担当した女性の想い

松木さんがデザインに協力したピンバッチ。ネイルアートは大会マスコットのフリージュ(撮影:越智貴雄) 

 過去最多となる167の国・地域と難民選手団が参加するパリ・パラリンピックは28日夜(日本時間29日未明)、開会式が開かれる。大会には約4400人の選手が参加して22競技549種目でメダルを争い、9月8日まで熱戦を繰り広げる。

 すでに各国の選手は、五輪の時と同じ場所の選手村に入って過ごしている。そのなかで今、日本人ボランティアが製作したピンバッジが「美しい」と評判になり、国境を超えて人気になっている。

 五輪・パラリンピックに参加する国は、オリジナルのピンバッジを製作して大会に参加する。期間中はそのバッジを他国の選手やスタッフと交換して、交流を深めるのが風物詩だ。

 現在、選手村で人気になっているのは、日本人のボランティアスタッフが製作したもの。富士山とエッフェル塔のイラストの周りに、桜の花が飾り付けられている。日本とフランスの両国を象徴するものをあしらった珍しいデザインが五輪期間中から話題になり、中国の選手がSNSにアップしたことがきっかけでさらに人気に高まったという。ついには、ピンバッジがメルカリに出品されて、数千円で取引される事態にまでなっている。

 ピンバッジのデザインに協力したのは、福岡県出身の松木沙智子さん。日本人ボランティア約40人の仲間たちと一緒に、ピンバッジを4000個製作してパリにやって来た。

 松木さんは、生まれつき視覚に障害を持っている。視野が極端に狭く、いずれ失明する可能性もある。それでも、同じ境遇の選手が活躍するパラリンピックに協力したいという夢を叶えるため、五輪期間から2カ月間、自費でアパートを借りてパリに滞在し、選手村でボランティアをしている。

 もともとは、東京パラでのボランティアを強く望んでいた。そのために福岡から東京に引っ越したが、その矢先にパンデミックの影響で大会が1年延期に。それでもめげることなくコロナ禍の中で1年間を過ごし、東京五輪の食堂のスタッフとして働いた。

「ようやく夢が叶ったんですが、五輪の時に転んで骨折をしてしまって……。一番やりたかった東京パラのボランティアができなかったんです」

 松木さんは、骨折したままでもボランティアをしたかったが、ケガの状況からあきらめざるをえなかった。それでも、この挫折に屈することなく、「東京でできなかったことをやり遂げたい」と、次の目標をパリに定めた。

 最初にパラリンピックでのボランティアを志したのは2017年。それから7年をかけて夢を実現させ、今大会では日本チームのサポート業務を担当している。各国の選手団のユニフォームを着た人たちから、次々と「そのピンバッジが欲しいの」と声をかけられ、松木さんは充実した日々を過ごしている。なお、ピンバッジには、視覚障害者の人でもデザインがわかりやすいように、凹凸をあえてつけたものも製作している。

パリ2024オリンピック・パラリンピック大会組織委員会のトニー・エスタンゲ会長にピンバッチを渡す松木さん(撮影:越智貴雄)

 取材をした27日には、パリ2024オリンピック・パラリンピック大会組織委員会のトニー・エスタンゲ会長が来村してイベントが開かれていたが、松木さんは「トニーにピンバッジを渡したい」と言っていた。彼を見つけてピンバッチを渡すと、「富士山とエッフェル塔だね。僕は富士山に行ったことあるんだ。ありがとう!」と笑顔で受け取ってくれた。

 ピンバッジ交換の伝統は、1896年の第1回近代オリンピックにまでさかのぼる。当初は、選手や審判、役員を識別するためのシンボルとして利用されていたが、時を経るにつれて記念品としての意味を持つようになり、大会参加者同士の交流の手段に変化した。1980年代にはピンバッチ交換がさらに活発化し、1998年の長野冬季五輪をきっかけに日本でも広がった。以来、多くのスポーツイベントや文化行事でもピンバッジ交換は盛んになっている。

 松木さんがデザインに協力したピンバッチも、パリパラリンピックの参加者同士の交流を深める大事なグッズになっている。

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