「母とアスリート -秋山竜子と里奈-」
歴史上最も成功したパラリンピックと言われる、2012年ロンドンパラリンピック。その背泳ぎS11クラス(全盲クラス)で見事金メダルを獲得した日本人競泳選手がいる。秋山里奈だ。生まれつき全盲。3歳のときに出合った水泳に夢中になり、25歳で世界一に輝いた。では、秋山里奈というアスリートはどのように育てられてきたのか。母親の、秋山竜子さんに話を伺った。
思い立ったら、すぐ動く。
里奈は、3680gの大きな赤ちゃんでした。五体満足とばかり思っていましたが、生後1カ月頃、ふと里奈を見たときに目が透けていたんです。心配で大学病院で検査してもらったところ、「お母さん、視覚障害者として子育てなさった方がいいと思います」と担当医師に言われました。網膜剥離という診断でした。
そのときの記憶はおぼろげですが、診察室から出て、トイレでわーっと泣いちゃった気がします。「まさかのまさか」でした。見えないというのがどういうことかが、目をつぶってもわかりませんでした。
そこで、平塚の盲学校にアポも取らずに、すぐそのまま行ってみました。私、思い立ったらすぐ動くんです。ラッキーなことに幼稚部の先生がちょうど時間があいていて、泣いていた私を温かく包み込んでくださいました。「大丈夫ですよお母さん」「一緒に育てていきましょう」。
目のことが発覚してから盲学校に駆け込むまで、1週間もたっていません。まず動きさえすれば、そのときに必要な方と巡り合うものなんですね。
涙は、流せるだけ流す。
「そもそも視覚障害者は、笑うことがあるのかしら?」。当初はそんなことすら、わかりませんでした。そこで先生から「じゃお母さん、学校の中を見てみましょう」とご提案いただきました。盲学校は基本的に生徒数も少ないので、里奈がここに来ることを思うと、また泣いちゃいました。
ある教室に入ると、小学校高学年の男の子が、2人で漫才のようなかけ合いをしながら笑い合っていました。そして、私に気づくなり質問攻めが始まりました。「だーれ?」「どうして泣いてるの?」「どこから来たの?」「なんの車?」。泣いている場合ではなくなりました。ああ、元気な子もいるんだなと気づいた。でも、その後も私はいつも盲学校の門をくぐると「みんな歌えるんだ」「お遊戯できるんだ」と胸がいっぱいになって涙が出ちゃう。「秋山さんのそばにいると泣いちゃう」と、まわりのママからも言われてました。
うちは里奈以外家族みんな涙もろくて、嬉しいときも悲しいときも みんなで一緒に泣く。わりかしそれがすんじゃうとスッキリして、「何か食べようか」とケロッとして引きずらない。涙腺がゆるいということも、ある種私たちの支えになったのかもしれません。
目の前の子供が、活き活きしていれば良い。
それからは、里奈のちょっとした仕草全部が「可愛い」と思えたり、お姉ちゃんとテレビの前で一緒に笑っているのを見て、嬉しく感じたりと、幸せな時間も増えていきました。
里奈は3歳で始めた水泳にも、楽しく打ち込んでいました。「ママが『あれしなさい、これしなさい』って言わなかったからよかった」とあとになって里奈が言っていたのですが、実は私、里奈の水泳のタイムすらも知らないでいたんです。中学校のときにも先生から「お母さん、里奈ちゃんベストタイム出ましたよ!知らないんですか?」と言われたりもしました。泳いでいるだけで胸いっぱい。上手に泳げて、「あらいいじゃない」と。
ほかの子はタイムが悪いと「お母さんに怒られちゃう」と言っていたそうですが、私は細かいところは気にせず、とにかく里奈が活き活きとする姿が見られればよかったんです。思うようなタイムが出なくて里奈が悔しがっていたときも、「里奈すごいよ!」「よかったよ!」と言いました。
とにかく、自分に甘く、他人に甘くが私のモットーなので。だけど里奈が「どうしてもやりたい」というなら私もつき合う。まさかそのまま、パラリンピックで金メダル獲るとは思いませんでした。
本人の気がすむまで、付き合う。
ある日里奈から、「習字をやりたい」と言われたことがありました。学校の先生に相談したんですが、「何回かやれば本人も納得しますから」と実践してくださって、実際にそれで本人も気がすんだみたいなんです。大事なのは「できない」と言うのではなく、本人が満足するまでやること。
あるときは、虫にも触れさせました。私が嫌がると里奈も嫌がって、里奈の世界が狭くなりますよね。なので、意を決して芋虫も飼ってみました。ある日カゴの中で、サナギから蝶になったんです。「ぱたぱたぱた」と。 里奈が「ママ、蝶になったよ!」と言ったので、 2人で外に放しました。なにしろ私は、里奈が満足いくまで、なんでも1回はやってみましたね。
見ないところは、見ないように。
ロンドンパラリンピックで金メダルを獲ってから、里奈は水泳を引退して就職活動を始めました。本人は一人暮らしにあこがれていたので、東京のマンションを探しました。私はね、離れるのが本当に嫌で。一人暮らしができるのかしら? と心配でした。でも里奈は一度決めたらゆずらないから、物件探しから手伝いました。
そうしたら、駅からすぐそばで、横断歩道を渡らずにすむマンションがうまく見つかったんです。それでもやっぱり私は「平気なのかしら」って心配で。あの子は方向音痴だから会社まで通えるかしら、とか。
でも試しに1カ月程一緒に暮らしたら、「あ、大丈夫だ!」と思ったんです。自分で納得したんですよ、里奈の生活を見ていて。コンビニの店員さんに「これを探してるんですけど」とちゃんと言えたんですよね。全部見ると不安が尽きないので、見ないところは見ないようにしよう、とも決めました。
今後は親の願いとしては、また里奈が何か好きなことに出合い、輝いていてほしいなと。「1回挑戦してみて、嫌だったらやめればいいから」って言っています。いつものパターンです。
(取材・文:澤田 智洋)