「母とアスリート -坂口明子と竜太郎-」
坂口竜太郎は、2歳のときに交通事故で障がいを負った。その後、父親が立ち上げた「浦安ジュニア車イステニスクラブ」で、車いすテニスプレイヤーとして頭角を表している。車いす国内ジュニアランキングは2位(2016年7月現在)。熱血漢の父と、それに食らいつく息子。2人を支えるのは、母明子さんだ。
「ここ」にこだわらない。
当時住んでいた市や学校からは、竜太郎を小学校に受け入れることができないと言われました。元気な子を普通の小学校に上げるだけなのに、どうして壁があるんだろうと疑問で。
そんなある日、彼が小学校に上がる2カ月ぐらい前に、幕張(千葉県)の友達の家に遊びに行きました。そのとき、「何だ、この開放的な町は!」と思って、その日のうちに周辺の小学校をちょっと調べたんですね。浦安まで範囲を広げて。そうしたら、ある先生が、おいでよって言ってくれたんですよ。元気だねってすごいほめてくれて。もう、ここにしようという感じで。
1カ月ぐらいの間に、バタバタと引越しもすませて。同級生たちもすぐ仲よくしてくれたので、ちょっとの坂道があったりしても、すぐ車いすを押してくれたり。本当に引っ越して良かったと思いましたね。
実は寝るときに毎晩、事故を起こした相手の人を思い出しちゃってたんです。相手の居眠り運転で、うちの子が事故にあったので。でも、引っ越したら吹っ切れることができた。今を生きようという気になった。タイミングと、そのときに出会う人と、入って来る言葉がすべてですね。
ちゃんと、吐き出す。
最初は小学校の先生たちも、「体育はどうやって参加させましょうか?」などと私にも意見を求めてくださったんですけど、本人が納得できるように話し合ってくださいと伝えました。子どもの世界があるのに、そこに1人お母さんがいたら絶対子どもの世界ができないから。できるだけ、ちょっと離れるスタンスは持ちたいなって。家ではすごい甘えてくるんですけどね。たぶん1日100回ぐらいは「お母さん」って言う。
本人が一番精神的に落ち着いてなかったのが、4年生ぐらいのときかな。なんで僕は立てないんだっていうのを、ぶつけてきた。そういう思いを吐き出す時間も必要だし、大切ですよね。つらいときは泣くのが当たり前だから。
そういう感情は私も子どもの前でもおさえなかった。私も泣きたかったら泣くし、言いたいときは言わせてもらう。でも、言いっぱなしは溝をつくってしまうので、言った後には必ず前向きな未来のことを話すようにはしていましたね。1回心底、竜の意見もいろいろ引き出せて、そこから少しちょっと落ち着いてきたんですね。お互い吐き出してよかったなと。
光に向かって、突進する。
ある日、リハビリして歩けるようになったアメリカ人の画像を、主人がインターネットで見つけてきて。調べたらサンディエゴに、脊髄損傷の人のスポーツ・リハビリセンターがありました。鳥肌が立って、画像見ながら2人で泣いたんですよ、何これって。こんな場所があるんだって。1筋の光が見えたっていうか、ここに賭けたいなっていう思いが生まれた。
そこからは早かったですね。「ちょっと俺見て来る」って主人が一人でアメリカに見に行って、私たちも追って行けることになった。日本の先生たちは、みんな反対したんですよね。でも、受け入れてくれるところがあるなら、行ってみようと。向こうには3カ月いたんですけど、みんなすごく気さくで、あっという間に施設の方とも仲良くなって。ある方にお世話していただいたのですが、脳性まひの日本人の子のお宅だったんですよ。日本で、「もうこの子は一生立てない」「寝たきり状態だよ」と言われてたそうなんですけど、今では自分で立って生活できるぐらいになっていた。
そのときの私たちは、「こういう子がいるんだから、絶対竜にも奇跡が起きるはず」と。いい話しか聞かない、マイナスなことは聞きたくないっていう感じで。主人が情報を集めるのが得意なので、私が「それいいんじゃない」と言ったものはすぐに試す。アクセルとアクセル。夫婦そろって、光があればそこに突進。
光がないなら、光をつくる。
何にも考えてないんです。悩むぐらいなら、プラスになることを見つけて、そっちに向かえたほうが気が楽だし。ある日、竜がテニスをしたいって言い出したんですね。まずは、ちっちゃな2000円ぐらいのラケットを買ってあげて、それで風船をぽんぽんして。誕生日に簡易の折り畳みのネットも買って、習わせたいねえってなったときに、できるところがもう全然なくって。ただただ、スポーツをやりたいだけなのに。
それで、主人はテニス全く未経験なんですけど、市営のテニスコートを取って、ちょっと遊ぶぐらいの感覚でやったのが始まりで。それから定期的にテニスで遊んであげるようになって。車いすの仲間も増えて、今の竜太郎たちのトップ・ヘッドコーチに巡り会えて、「浦安ジュニア車イステニスクラブ」を立ち上げました。気づいたら7年目です。レッスン生も20人を超えました。東京から通ってる方もいますね。子どもたちが楽しそうで、立ち上げてよかったなと。
客観的に、寄り添う。
今あの子がテニスでこれだけやれているのが、私は不思議なくらいなんです。お医者さんも「どうやってラケット持って打てるの?」ってその段階なんですね。動けてるだけじゃなくって、ちゃんと試合に出て勝ててるっていうのが、母親としてはもう十分頑張ってくれてると思います。みんなができないって思ってることを竜がやってる感じ。そんな竜を見ていると、これがあの子の使命なのかなって思えてしまう。
竜とお父さんのペアで、これからも新しい道を開拓はして行くとは思うんですけど。最終的にはアスリートになるという夢を持ってるので、サポートはもちろんするつもりです。でもアスリート以外の道もあることを、そのうち伝えたいとは思っています。アスリートとして生きていかなくても、テニスに関わっていく方法はいっぱいあるからねって。あの子って、みんなの輪をワァッとつくるのが、すごく上手で。それって特殊能力かなって思えるんですね。だからそっち方面も向いているかなあ。おしゃべりもすごい好きだし。障害があってもこんなにスポーツを楽しんでる人たちがいっぱいいるんだよっていうのを、発信する人になってもいいのかなあって思ってます。
(取材・文:澤田 智洋)