NEXTスポーツ 「車椅子ソフトボール」
「もう一度、野球をやりたい」。
日本の車椅子ソフトボールの歴史は、ひとりの元高校球児のこの言葉から始まった。北海高校(北海道)野球部出身の飛島大輔である。彼は高校卒業後、交通事故で車椅子生活となった。一時は、車椅子バスケットボールの選手としてプレーしていたが、やはりどうしても野球への思いを断ち切ることができなかった。「車椅子に乗って野球ができないだろうか」そんな思いに応えようと立ち上がったのが、飛島の高校時代の恩師である大西昌美監督(現北翔大学野球部監督)だった。
2008年、飛島と当時の大西ゼミに所属していた学生とともに、「車椅子野球」を実現させるためのルールや道具の研究が始まった。しかし、土や芝の野球用のグラウンドでは、車椅子そのものを動かすことが困難であるなど、環境面でも多くの課題に直面し、なかなか思うように研究は進まなかった。
転機が訪れたのは、2012年。飛島が車椅子バスケ時代のチームメイトだった堀江航から、米国では「車椅子ソフトボール」という競技が盛んに行われていることを聞いたのだ。早速、飛島と大西監督らは、毎年8月に行われているという「全米選手権」への視察準備に取りかかった。ところが、全米車椅子ソフトボール協会(NWSA)から思わぬ打診が舞い込んできた。「せっかく来るなら視察だけではなく、実際に出場してみてはどうか」と言うのだ。そこで急きょ「日本代表チーム」を結成。当初視察だけの予定が、全米選手権にゲスト出場を果たした。このことがきっかけとなり、日本でも「車椅子野球」から「車椅子ソフトボール」へとシフトし、本格的な活動がスタートすることとなった。
翌2013年4月には、「日本車椅子ソフトボール協会」が発足し、同年7月には「第1回全日本車椅子ソフトボール選手権大会」が開催された。加盟チームは、2013年には北海道と東京の2チームだったのが、現在では全国で10チーム(北海道、宮城、東京2、埼玉、神奈川、愛知、大阪、広島、北九州)にまで増加している。
車椅子ソフトボール発祥の米国では、現在ジュニアチームを含めて約80チームが活動しており、毎年8月に行われている「全米選手権」(2014年からは世界への普及を目的に「ワールドシリーズ」に名称を変更)は40年以上の歴史がある。そのほか5〜9月には各地で大会が行われるなど、人気の高い「障がい者スポーツ」として知られている。
一方、日本では「障がい者スポーツ」としてではなく、「障がいの有無に関係なく、だれもが参加できるスポーツ」として行なわれている。これは、人数不足を補うためという理由だけではない。もともと大西ゼミで研究されていた「車椅子野球」が目指してきたのは、障がい者と健常者がともに楽しむスポーツだったからだ。そのため、障がい者限定とされている米国とは異なり、日本では障がい者と健常者の混合チームが結成され、健常者も車椅子に乗ってプレーする。
元プロ野球選手や甲子園経験者なども加わり、障がいのある選手と一緒にプレーしている光景は、まさに「ダイバーシティ—(多様性)」の姿そのもの。また、野球経験のある健常者だからといって、必ずしも活躍できるとは限らないのが魅力の一つとなっている。車椅子操作は車椅子ユーザーの方が巧みで、車椅子に乗りながらのプレーは健常者にとっては予想以上に難しいからだ。
そんな車椅子ソフトボールの魅力に、すっかり「はまった」元球児もいる。現メジャーリーガーの田中将大投手とともに駒大苫小牧高校(北海道)の黄金時代を築き上げた一人、鷲谷修也だ。彼は、米国の短期大学に留学中、メジャーリーグからドラフト指名を受けたこともあるほどの実力の持ち主である。その鷲谷も、車椅子ソフトボールを始めたばかりのころは予想以上に苦戦し、「走攻守」どれをとっても、巧みに操作する車椅子ユーザーにはかなわなかった。だが、「野球経験者の自分が必ずしも活躍できるわけではない。それが新鮮で、面白いと思えた」と鷲谷は語る。2015年からプレーヤーとして各大会に出場している彼は、母校の上智大学を中心としたチーム「上智ホイールイーグルス」を結成。現在、主将として牽引している。
米国では、メジャーリーグの球団が、車椅子ソフトボールのスポンサーとなっているチームも多い。2014年には、ミネソタ・ローリング・ツインズをサポートしているメジャー球団のミネソタ・ツインズが、米ペプシコ社と、ブルックリンパーク市と共同で出資し、車椅子ソフトボール専用球場を建設したことが話題となった。
一方、日本では2013年から埼玉西武ライオンズが、2014年からは北海道日本ハムが「スペシャルサポーター」として、車椅子ソフトボールを支援している。西武は2015年から「ライオンズカップ」を主催。第2回大会を開催した2015年は、第1回と比較して、出場者数は80名から110名に増加した。さらに2015年、「ライオンズカップ」開催を機に結成された「埼玉A.S.(Adapted Sports)ライオンズ」には、西武の選手と同じデザインのユニホームなどを提供している。一方、日本ハムは2014年から「ファイターズ基金」の一部を日本車椅子ソフトボール協会に提供している。2015年8月29日の「西武対日本ハム」(西武プリンスドーム)では、車椅子ソフトボール選手が始球式を行うなど、積極的に普及活動が行われている。
日本の車椅子ソフトボールの広がりは、国内にとどまらない。2015年、「第1回ライオンズカップ」には、韓国から脊髄障がい者協会の総長やスタッフ、交通事故で障がいを負った元韓国プロ野球選手が視察に訪れた。そのとき、「帰国したら、すぐに取り組みたい」と述べた総長の言葉通り、韓国では普及活動がさっそく始まった。2015年7月に全日本選手権と同時開催された「第1回ワールドチャンピオンズカップ」には、韓国が代表チームを結成して出場した。同大会には、これまで各クラブチームでの活動のみだった米国で初めて結成された代表チームも出場。日米韓の3カ国で争われ、米国が初代王者に輝いた。
日米韓3カ国の共通の目標は「パラリンピック種目としての採用」で、そのためには世界への普及が急務とされている。現在、アジアやアフリカ、オセアニアでも関心が寄せられており、少しずつ普及の輪は広がりつつある。しかしながら、五輪競技の「野球」「ソフトボール」同様に、世界への普及は容易ではなく、思うように進んではいないというのが現状だ。
パラリンピック採用に向けて、「障がい者」の「競技スポーツ」として世界に広がりを見せる一方、国内では「障がい者」と「健常者」が「共にプレーするスポーツ」として発展している日本の車椅子ソフトボール。目指すのは、真の意味で「壁を取っ払った」スポーツとしての姿である。
(取材・文:斎藤 寿子)