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母とアスリート

母とアスリート

「母とアスリート -瀬立キヌ子とモニカ-」

リオパラリンピックのカヌーに出場した瀬立モニカ(右)と母のキヌ子さん(撮影:越智貴雄)

 瀬立モニカは、15歳のときに外傷性脳損傷という障害を負った。そのわずか3年後。パラカヌー選手としてリオパラリンピックに出場し、世界8位に輝いた。その会場に、ひときわ目立っていた女性がいた。モニカの母、キヌ子だ。周囲のだれよりも派手な格好をし、だれよりも声を張り上げてモニカを応援する。その姿に心を打たれたのか、いつしか会場中にはモニカコールが鳴り響いていた。

私のために、自立してもらう。

 モニカは、子どものころからスポーツが大好きでした。テニス、バスケ、カヌー。いろいろやってましたね。水泳も3歳から習い始めました。保育園の帰りに、よく街中にある電柱にちゃちゃちゃと登って、上まで行くんですよ。さすがにそれはね、ちょっと恥ずかしいからやめてと思いましたけれど(笑)。

 でも、しつけは厳しくやりましたね。あとは文武両道を目指した。スポーツやるということは、勉強もやらないとダメなんだよ、という話は常にしてきて。塾も行きました。私が働いていたので、基本どこでも1人で行ってもらって。なんてことはない。将来私が困らないように自立させてたんです。つまり、わりといい加減ではありました。

現役看護師の瀬立キヌ子さん。病院でも人気者(撮影:越智貴雄)

ピンチには、とことん寄り添う。

 モニカが高1のとき、学校から電話がかかってきました。「モニカさんがケガしたからすぐ来てください」と。体育の授業で転倒して、足をケガしてそのまますぐに入院。そんなに深刻だと思ってなかったんですけど、2、3日経ってから「ママ、立てないんだよね」と言うから「え、なんで?」とあわてて。

 その後入院してリハビリしても、足に麻痺があって起き上がることができない。「体幹機能障害」と診断されるまで2カ月ぐらいかかりました。どうしてうちの子だけが、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって、何度も思いましたね。でも、やっぱり子どもの前で涙は見せられないから、もう絶対泣くことだけはやらないでおこうと思って。

 退院してからは、もっと大変でした。お風呂もトイレも、あとは学校や駅への移動も、毎朝車椅子を押して行ったんですよ。だんだん移動も上手になってきて、ある日、「ママ、一人で大丈夫だからもう車椅子押さなくてもいいよ」と言われました。そこから徐々にだけどね、モニカが一人でできることも増えました。生活が安定するまでは、とにかく寄り添いました。

子供の時の写真。どの写真を見ても笑顔が溢れている(撮影:越智貴雄)

障害が、私たちを選んだ。

 やっぱり初めはね、モニカはみんなの視線が気になったみたいで。だれも見てないんだけど、視線をものすごく感じた、って言って。あと、駅のエレベーターに乗ろうと思っていたら、後ろからみんながバアッと走り込んできて、ドアがパアンと閉まっちゃう。それがすごくつらかった、とは言ってました。みんな冷たいって。途中から障害を負った人っていうのは、ある日を境に突然そういったことに直面していく。

 そのときに思ったのは、いつか人様の前で、そういう乗り越えてきた、経過してきたことをお話できればいいなと。話していくことによって、聞いた人にちょっとお役に立てればなんて、その頃から思ってましたね。これは絶対、私たちに課せられたものだから。障害が私たちを選んだに違いない。私にいろいろ求められてるんだな、というふうにちょっと思ったんですね。

 それで、まあそういうチャンスがあったら、みんなに話していったりすることで、今のようにリカバーできたお礼になるなと思って。だからこうしてお話させていただいているんです。

希望さがしをする。

 あるとき「モニカは手は動くから、もしかしたら泳げるかもしれないよね」と言って。東京都北区の王子にある障害者スポーツセンターに連れていって、いっしょに水に入った。それで私が、パッと手を放したら、モニカがスウッと泳いで。あ、泳げる!と思ってうれしかった。そのとき、本当に肩の力がスーッと取れていく感じで。モニカもそうだったと思います。

 そこで、水泳でパラリンピックを目指そうとなった。あと、元々やっていたカヌーでもパラリンピックを狙えると思った。はじめはもう「カヌーは体幹を使ってやるものなのに、私は体幹が効かないんだからやれるわけないじゃん」と言ってたんですよ。だけど、みんなが沈まないカヌーを用意してくれて。やってみたら、思ったより乗れたので「これだ!」と思いましたね。

 私たちは、いつでも希望さがしをする。例えばね。モニカと同じような症状で全然動けなかった方が、1〜2年後に歩いていたことがあったという話を聞いてね。だったらモニカも、いつかは歩けるかもしれないという希望をもっている。なにせモニカの今の夢は「走って焼き肉屋に行く」ということですから。

2020東京パラリンピックでメダル獲得をざすモニカさん(撮影:越智貴雄)

ほめて、すぐに次の一歩へ。

 リオのレース直後は「がんばったね」「やったね」と思い切りほめました。それで、ちらっと、2020年ね、みたいな話もつけ加えました。輝くメダル取れるといいねという。ただほめるんじゃなくて、次のステップに行けるような話をね、ちょっと入れとく。昔からね、そういうやり方。水泳で何級とかになってきて、じゃあ、次はもう大丈夫だねとか、もう泳げるねとか、そういうような言葉かけをしていって、上のステップへと導く。

 モニカは小さい頃からうまく泳げないと、悔しくて泣きながら泳いでいた。それをほかのママたちからは「たかが、水泳で泣きながら泳ぐって子はいないよ」とか言われて。「え? 私はそれが当たり前と思っていた!」なんて。でも当時のモニカの頑張りが、障がい者になって、元気になる段階で本当に活きたなと。

 もともとカヌーや水泳をやっていたことが、今また自信を取り戻すきっかけになった。なんでもいいと思うんですよね。それがスポーツじゃなくても、お勉強であれ、図工でもいい。何にでもチャレンジしておく。うまくいったら、次は今までできなかったことにまたチャレンジする。そういうことが大切なのかなと。一つ一つ階段をのぼっていく。

(取材・文:澤田 智洋)

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