「日の丸を背負う使命」~車椅子バスケ・藤本怜央~
藤本怜央、32歳。日本代表のエースでもあり、キャプテンでもある彼は、漠然とした夢を語ることを良しとしない。彼が口にするのは、現実的な目標。しっかりとした自信と手応えを感じていることのみだ。その藤本が、リオデジャネイロパラリンピックの目標として掲げたのは「メダル獲得」。チームとしての目標である「過去最高位の6位以内」よりも、はるかに高い目標をあえて設定した背景には、4年前の忘れられないひと言があった――。
覚悟を促した父親からの言葉
2012年9月、藤本はロンドンパラリンピックを終え、帰国の途に就いた。自身3度目となるパラリンピックは、「ベスト4」を掲げながら、結果は9位。決勝トーナメントにすら行くことができなかった。無論、藤本はエースとしての責任を強く感じていた。
「ロンドンでは、『こんなはずじゃなかったのに……』という悔しさと、『まだまだやるべきことはあったのではないか』という北京以降の4年間に対する後悔しかありませんでした」
そんな藤本に、あえて厳しい言葉を投げかけたのは、藤本が尊敬してやまない父親だった。
「いくら内容が良くたって、勝たなければ意味がない」
それは、藤本が全く予想だにしていなかったことだった。
「父はとても穏やかな人で、普段はそんなに厳しいことを言う人ではないんです。だから、本当に驚きました。アテネ、北京の時には、『よく頑張ったな。お疲れ様』と言われていたので、今回もそんな言葉をかけてくれるのかなと思っていたら、『結果がすべてだ』とズバッと言われた。おそらく父は、僕がアテネ、北京とは立場の違う、エースとしての重責を担っているということを、ちゃんと理解してくれていたんだと思います。だからこそ、あえて厳しい言葉を言ってくれたんだと思うんです。誰よりも自分を応援してくれている父親からそう言われた時に、日の丸を背負って戦う自分の使命はそれなんだと気づきました。一気に目が覚めた感じでしたね」
もちろん、メダルを取ることがいかに難しいことかは3度のパラリンピックを経験している藤本には十分にわかっている。しかし、それでも日本代表としての使命はそこにある。そう思った。
だからこそ、藤本は自分自身に誓った。
「『もうこれ以上は無理。バスケなんか、もうやりたくない』。そう思えるくらいの努力をして、4年後、リオを迎えよう」
最高のチームメイト共に
実際、この4年間、藤本はあらゆる努力を積み重ねてきた。2014年には競技により専念できる環境を求め、アスリート契約のできる企業に転職。さらに同年秋からは、ドイツのプロリーグ、ブンデスリーガでプレーし、世界各国から集まるトッププレーヤーたちの中で、心技体すべてを磨いてきた。こうした中で、苦しみと向き合ってきたという自負がある。
こうして迎えるリオパラリンピック。今、藤本の頭には次の2020年東京大会のことは微塵もない。あるのは、リオだけだ。
「リオの先のことは、今は全く考えていません。とにかく、この大会で結果を出すこと。それだけです」
アテネ、北京、ロンドンと過去3度の出場経験を持つ藤本だが、今大会ほどプレッシャーを感じたことはない。
「キャプテンという立場もありますし、何よりこれまでにはないほどの期待の大きさを考えると、プレッシャーは計り知れない。でも、その期待にしっかりと応えたいと思っています」
もちろん、そこには自信と手応えがある。
「今の日本代表には、しっかりとしたまとまりがある。12人全員がリーダーシップを取れるし、勝つための準備を誰一人怠る者はいません。絆の深さは、過去にはないほど強いチームです」
キャプテンでありエースであるという重責を担う藤本。だが、彼には心の底から信頼し合える仲間がいる。彼らとともに、閉会式の翌日、笑顔で33歳の誕生日を迎えるつもりだ。
<藤本怜央(ふじもと・れお)>
1983年9月22日、静岡県出身。小学3年の時、交通事故に遇い、右足膝下を切断する。義足を履きながら、小学校時代は主にサッカーをし、中学・高校時代はバスケットボールに熱中した。高校3年の時に車椅子バスケットボールの存在を知り、東北福祉大学入学と同時に宮城マックスに加入した。翌年、日本代表に初選出。日本選手権ではチームの8連覇に大きく貢献。これまで3度のMVP、12度の得点王に輝いた。2013年から日本代表のキャプテンを務める。2014-2015シーズンからはドイツのブンデスリーガ・ハンブルガーSⅤでプレー。リオはアテネ、北京、ロンドンに続いて4度目のパラリンピックとなる。
(文/斎藤寿子)