「転機となった一本の電話」~車椅子バスケ・豊島英~
4年前、目標としていたパラリンピック出場を叶えた豊島英。だが、それは悔しい思い出となっている。チームは前回大会であげた過去最高位の7位を上回る「ベスト4」を掲げていたものの、結果は9位。決勝トーナメント進出さえもできずに終わった。
「自分はこのままで絶対に終わらない」
最後の試合を終えた日、豊島の気持ちは早くも次へと向かっていた。
すべてはパラリンピック出場のために
4年前はまだ、控えの存在で、ベンチにいることの方が多かった豊島だが、今は違う。主力の一人として、チームにはなくてはならない存在となっている。そんな豊島にとって、自らの競技人生を語るうえで、欠かすことのできない人物がいる。チームメイトであり、同じ日本代表としてリオに出場する藤井新悟だ。
豊島は、中学生の時に通っていた養護学校(現特別支援学校)の体育教師のすすめで車椅子バスケを始めた。その時から目標としていたのが、パラリンピックだった。
「チームには女子の日本代表として活躍している選手がいたこともあって、自然と『自分もいつかはパラリンピックに出場したい』という気持ちが湧いてきました。とはいえ、当時は目標というよりも、漠然とした夢でしかなかったですね」
転機が訪れたのは、2008年、豊島が20歳の時だった。ある日、彼の元に1本の電話がかかってきた。それは、当時の豊島にとっては雲の上の存在だった、藤井からのものだった。
「同じガードということもあり、僕は以前から藤井さんに憧れていました。その年、藤井さんはキャプテンとして北京パラリンピックに出場し、過去最高の7位という結果を出していた。すごいなぁと思いながら見ていました」
当時、福島県のチームに所属していた豊島だったが、時には宮城県にまで足を延ばし、藤井が所属する宮城マックスの練習に参加することもあった。間近で見る藤井はまさにスーパースター。「自分もあんなふうになりたい」とレベルアップする方法を模索していた。
その一つとして、豊島は当時既に日本選手権で優勝し、日本王者となっていた宮城マックスへの移籍を考え始めていた。厳しい環境に身を置くことで、自らを鍛えたいと考えたのだ。藤井からの電話は、そんな矢先のことだった。
忘れてはいない4年前の悔しさ
藤井は、単刀直入にこう言った。
「うちのチームで一緒にやらない?」
予想だにしていなかった藤井からの勧誘に、豊島は驚きを隠せなかった。と同時に嬉しかったという。
「おそらく藤井さんは、僕が移籍するかどうかを悩んでいたことに気づいていたんだと思います。藤井さんのその言葉で、僕の決意は固まりました」
翌2009年、豊島は宮城マックスへと移籍した。日本一のチームでもまれた彼は、急速に成長し、その年初めて日本代表候補の合宿に召致された。2010年には世界選手権に出場。そして2012年、念願だったパラリンピック出場を果たした。
「あの時、藤井さんが背中を押してくれたからこそ、今の僕があると思っています」
今や、その藤井と同じユニット(コート上の5人の組み合わせ)を組むまでになった豊島。リオでは、4年前の雪辱を果たすつもりだ。
「確かにずっと目標としていたパラリンピックに出場することができたのは、本当に嬉しかったです。試合前の国歌斉唱の時なんかは、『今、パラリンピックのコートに立っているんだ』ということを実感しました。でも、大会を終えた時、悔しさが込み上げてきた。その時に誓ったんです。この悔しさを、絶対に次のパラリンピックで晴らしてみせる、と」
果たして、2度目のパラリンピックは、豊島に何をもたらすのか――。
<豊島英(とよしま・あきら)>
1989年2月16日、福島県生まれ。生後4カ月で髄膜炎を患い、両脚が不自由となり、車椅子生活となる。中学生の時に車椅子バスケットボールを始め、地元の「TEAM EARTH」に入った。2009年に「宮城MAX」へ移籍し、同年日本代表候補の合宿に初招集される。翌2010年には初代表入りを果たし、世界選手権に出場。2012年ロンドンパラリンピックにも出場した。2014年には世界選手権、アジアパラ競技大会に出場。昨年のアジアオセアニアチャンピオンシップでは、リオの切符獲得に貢献した。毎年5月に行われる日本選手権では2010、2013、2015年と3度MVPに輝いている。
(文/斎藤寿子)