石川丈則「40歳、パラ初出場への道のり」
「パラリンピック」――30歳を過ぎたあたりから、追うことを止めた夢があった。いつの間にか、自分とは無縁の世界だと思い込んでいた。しかし、40歳となった今、その夢が現実になろうとしている。リオデジャネイロパラリンピックの推薦内定選手12人の中で、最年長にして初めて世界最高峰の舞台に挑むアスリート・石川丈則。その道のりを追った。
◆「思い出づくり」から始まった代表への道
石川に転機が訪れたのは2011年4月。車椅子バスケを始めて12年目、35歳の時だった。翌年のロンドンパラリンピックの選考会を兼ねて行われた強化合宿に、初めて招致されたのだ。それは異例のことだった。
「普通は、第一次、第二次と、段階を踏んでいくんです。でも、僕はそれまで一度も呼ばれたことがなかった。既に合宿は10回目を超えていましたから、呼ばれた嬉しさよりも、『なんで自分が?』という驚きの方が大きかったですね」
石川を合宿のメンバーに推したのは、当時日本代表の指揮官を務めていた岩佐義明ヘッドコーチ(HC)だった。きっかけは、前年10月に行われた全国障害者スポーツ大会(全スポ)。その時目にした石川のプレーに、岩佐HCは心を動かされたという。
「1.5点には藤井新悟というゲームメイクに長けた選手がいたのですが、彼とはまた違うタイプの1.5点の選手が欲しいなと思っていました。そんな時、全スポでタケ(石川)を見たんです。正直プレーに雑なところはありましたが、自分でゴールに向かっていく突破力がありましたし、何よりスピードがあった。決して優等生タイプではないのですが、何かやってくれるという期待感が持てる。そういう選手のように思えて、その場で合宿に呼ぶことを決めたんです」
ところが石川ははじめ、断ろうと考えていた。「今さら」という思いがあったからだった。
「若い頃は代表を目指していたこともありましたけど、なかなか芽が出ず、そのうち自分がやっている車椅子バスケと、代表とでは違う競技みたいに思えていたんです。それでいつの間にか、代表に対して興味がなくなっていた。だから合宿に呼ばれた時、『今さらオレがいったところで、何の意味があるんだろう』と思ったんです」
それでも参加を決めた理由は「思い出づくり」。それ以上の気持ちは、その時はなかった。
実際、合宿に参加してみると、戸惑いしかなかった。
「みんなが第一次の合宿からずっと積み上げてきたことを、いきなりやれと言われても、何をどうすればいいかまったくわかりませんでした。それに、自分のチーム(パラ神奈川スポーツクラブ)と代表とでは、ローポインターの役割もまるで違った。正直、『オレには無理』と思いました。だから、好き勝手にやっていた感じでしたね」
その“好き勝手”が、かえって石川らしさを引き出していたのだろう。岩佐HCも「タケの存在が、チームにいい刺激を与えている」と感じていたという。石川はその後も、強化合宿に呼ばれ、同年10月に行われたロンドンパラリンピックの予選(アジアオセアニアチャンピオンシップ)では、補欠メンバーに選出されるほどになっていた。
合宿を重ねるにつれて、石川の気持ちも変化していった。
「だんだんと代表でやっていることがわかり始めると、今まで知らなかったことをやることに面白さを感じ始めました。だから呼ばれる限り、とにかく頑張ってみよう、そう思うようになっていったんです」
結果的に、2012年ロンドンパラリンピックでは国内待機の補欠メンバーに踏みとどまった。だが、これを機に、石川は代表への道を駆け上がっていくこととなる。
◆ 仲間の思いを共に臨む初のパラリンピック
2016年リオデジャネイロパラリンピックに向けて、2013年5月、日本代表男子チームの新指揮官に及川晋平HCが就任した。彼はロンドンパラリンピックでは、アシスタントコーチとして岩佐HCを支えた人物だった。その及川HCもまた、石川のスピードに一目置いていたのだろう。石川は強化合宿の常連メンバーとなっていった。
そしてその年の11月、石川に大きなチャンスが訪れた。翌年の世界選手権のアジアオセアニア予選(タイ・バンコク)、石川はまたも補欠メンバーだった。すると大会1カ月前に、代表メンバーのひとりがケガをし、出場辞退を余儀なくされた。代わりに、石川が急きょメンバーに入ることとなったのだ。
38歳にして初めての国際大会である。さぞや緊張したに違いない。ところが、石川はあっさりそれを否定した。
「年の功なんですかね(笑)。全く緊張せずに、いつも通りにプレーできました」
それは、翌年の世界選手権(韓国・仁川)でも同じだった。こうした強心臓ぶりも、指揮官には頼もしく感じたに違いない。その後、石川はアジアパラ競技大会(2014年10月)、アジアオセアニアチャンピオンシップ(2015年10月)にも出場。日本代表チームにとって、欠かすことのできない存在となっていた。
そして2016年5月22日、日本車椅子バスケットボール連盟が発表したリオデジャネイロパラリンピックの推薦内定選手12名の中に、「石川丈則」の名は、しっかりと刻まれていた。初めて強化合宿に招致された時の石川は、まさか本当に自分がパラリンピックの舞台を踏むことになるなどとは予想すらしていなかったに違いない。
その初招致から5年、石川の思いも変化している。以前はパラリンピックに出場することを目標としていたが、ある人の言葉を聞いて、その先を考えるようになったという。それは2008年北京パラリンピックで400メートル、800メートルを世界新記録(当時)で金メダルに輝いた車椅子ランナー・伊藤智也の言葉だった。
「伊藤さんがテレビのインタビューで『パラリンピックでメダルを取ることは通過点』と言っているのを聞いて、なるほどと思いました。世界で戦うには、パラリンピックのもう一歩先を考えていかないといけないんだな、と思ったんです」
代表チームには「パラリンピックで過去最高の6位以上」という目標がある。だが、石川にはそのもう一歩先の目標がある。
「実は僕、子どもの時からずっと野球が大好きなんです。だから将来は、少年野球チームの指導者になりたいというのは、ずっと思ってきました。それと最近では、車椅子バスケのジュニア世代も教えたいなと。代表として一緒にプレーしてきた同世代の藤井新悟と佐藤聡と、『3人で一緒にやろう』と言っているんです。そういう指導者になった時に、自分が代表としてやってきたことが活かせたらなと。パラリンピックで終わりではなく、その先につなげたいと思っています」
同世代で仲がいいという石川、藤井、佐藤の3人は、及川体制となって以降、ベテランとしてチームを支えてきた。「共にリオで戦う」ことを目指してきたが、推薦内定選手に佐藤の名前はなかった。もちろん石川も、それは選考の結果として受け入れている。選ばれる選手がいれば、外れる選手もいる。そのことは、十分にわかっている。ただ、佐藤と一緒にリオの舞台を踏みたかった。その思いは、やはり強かった。
「代表チームはみんな仲が良くて、同じ目標に向けて一つになっている。そう感じられるからこそ、リオで戦うのが今、楽しみなんです。ただ、そこに佐藤がいないというのはやはり寂しい。ずっと代表として活躍してきた彼には、たくさん教えてもらったし、同世代の藤井と佐藤がいたからこそ、僕はやってこれたと思っています。佐藤の悔しさは計り知れない。代わりにはなれないけれど、『佐藤の分も』という気持ちがすごく強いんです」
リオデジャネイロパラリンピック開幕5日後の9月11日、石川は41歳の誕生日を迎える。車椅子バスケ男子では最年長タイ記録、初出場としては史上最年長の記録だ。果たして、世界最高峰の舞台は、彼にどんなことをもたらしてくれるのだろうか。いずれにせよ、最後まで自分の役割を全うするつもりだ。仲間の思いを胸に――。
(文・斎藤寿子)