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パラコラム

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パラリンピック出場への夢〜2人のアフガン女性アスリート

 東京2020パラリンピック大会で取材できない選手がいる。アフガニスタン代表選手だ。
「取材対応しない」と発表した選手に取材を試みるのは無謀で、意味のないことかもしれない。しかし、足は競技現場に向かっていた。

東京大会を目指す女性アスリート

 筆者はこれまでにアフガニスタンの女性アスリートに取材したことがある。彼女の名前はニロファ・バイオット。2018年にインドネシアのジャカルタにて開催された、アジアパラ陸上大会でのことだ。

 この大会にアフガニスタンから初めて出場した車いすバスケットボール女子チーム。当時、車いすバスケのキャプテンだったニロファは、館内に響き渡る大声でチームを鼓舞し、ゴールを決めると車いすで飛び跳ねるがごとく喜んだ。喜怒哀楽を全面に出すその姿が、2001年からのアフガン戦争から伝わる重苦しいアフガニスタンのイメージをガラリと変えてくれた。

 1993年生まれのニロファは、2歳の時に自宅にロケット弾を落とされ、兄は亡くなり、ニロファも重症で入院した。一命は取り留めたものの、脊髄を損傷し両足が麻痺して歩けなくなる「対麻痺(ついまひ)」を患った。19歳の時に車いすバスケを知り、同国内で初めて開催された女子トーナメントでデビューした、車いすバスケのパイオニア的存在だった。

「東京パラリンピックに出たい」。ジャカルタでそう語った。

 しかし、彼女はタイで2019年に開かれた車いすバスケの国際大会で惜しくも初めてのパラリンピック出場のチャンスを逃してしまった。

2018年のアジアパラ陸上大会に出場するアフガニスタン女子車いすバスケットボールチームのニロファ(撮影:越智貴雄)

届いた声明「アフガニスタンの女性が参加する権利を奪わないでください」

 ニロファ同様、女子テコンドーの選手、ザキア・フダダディも東京パラリンピック出場を目標にしていた。22歳。1998年生まれのザキアは北京五輪とロンドン五輪の男子テコンドーでアフガニスタンが2大会連続で銅メダルを獲得したのを見て、テコンドーでパラリンピックに出場するという夢を持つようになり練習に打ち込んできた。

 夢の舞台は、思わぬ展開で遠のいた。8月15日、ザキアの母国の首都であるカブールがタリバン政権によって占拠されたのだ。現地のパラリンピック委員会は「空港は閉鎖され、東京への移動手段もなくアフガニスタンは参加しない」として参加の断念を発表した。参加はおろか、明日の生活すら危うい状況に追い込まれた。しかし、ザキアは諦めなかった。

 ザキアはネットを通じてこう訴えた。

「私は家に閉じ込められ、買い物や練習などのために外に出ることもできません」

「アフガニスタンの女性が参加する権利を奪わないでください。どうか助けてください」

 ザキアは女性アスリートとしては2004年のアテネ大会以来、2人目のパラリンピック出場者になるはずだった。

 24日の開会式に、ザキアの姿はなかった。開会から遅れて4日。IPC(国際パラリンピック協会)が記者会見でザキアの来日を発表した。ただし、「試合後の取材は無し」。インタビューはできなくても、と筆者は競技場に足を運んだ。

東京パラリンピックのテコンドー会場、ザキアが壇に上るテコンドー会場のコート。記者席からザキアの表情を見るのはやっとの距離

読めない表情の向こう側にあるもの

 9月2日、ザキアが出場するテコンドー49キロ級(上肢障害K44)は、幕張メッセで開催された。真っ暗なステージにスポットが当たると、アナウンスとともにザキアが登場した。

 顔の表情は硬い。拳をあわせると、ザキアの夢見た舞台が始まった。1ラウンドを6−5でリードした。「ザキアの左足は手強かった」と対戦相手のジヨダホン・イサコワ(ウズベキスタン)は試合を振り返って語る。前半はザキアのペースだったが、後半に対戦相手に追い上げられ、惜しくも初戦で敗退した。競技終了後にミックスゾーン(取材ブース)に行ったが、やはりザキアは姿を見せなかった。夕方5時からの敗者復活戦に再び登場したザキアは2ラウンドまでリードしていたが、最終ラウンドで逆転され敗退した。その後も彼女の声を聞けるチャンスは1度も訪れなかった。

記者が集うプレスルームにはザキアの敗者復活戦の試合開始時間が書かれた張り紙。「世界各国記者の問い合わせが多くて手書きで掲載した」(現地ボランティア)

 スポーツの醍醐味とは何か。「競技をしているときは心から笑えて、自分の障害や直面している困難も忘れられるんです」と教えてくれたのは、前出のニロファだった。

 試合中はすべてを忘れてプレイに集中できるーーその言葉を頼りに、競技中、競技後のザキアの表情の変化を見逃さないようにした。しかし、その表情からは何かを読み取ることができなかった。

 それは当然のことかもしれない。戦火を逃れてまだ間もない。一時的かもしれないが、救出されて、たどり着いた場所が東京だった。未だ多くの人が、国外に逃亡することもできず、不安な日々を送っているのだから。

東京パラリンピックのテコンドーの敗者復活戦で破れたザキアの会場を後にする姿(撮影:越智貴雄)

 一方のニロファは今、どうしているのか。8月21日、Facebookメッセンジャーの音声収録機能を使って生の声が届いた。

「スペインの支援で昨日、(同国北部の)ビルバオにたどり着きました」

 ニロファは政権崩壊を耳にしてから、自身の身を案じてカブール空港へと向かった。ザキアと同じようにスマホを使って、ビデオ配信で助けを求めた。空港で2日間過ごした後、スペイン人ジャーナリストの支援で、同国へと移ることができた。

「東京大会にはでられなかったけど、命が助かってよかった」と安堵の声を届けてくれた。スペインでは車いすバスケのチームに合流し、明日へのステップが踏めるようになっているという。

アフガニスタン女子車いすバスケット選手のニロファ・バイオット選手(撮影:越智貴雄)

「競技後48時間以内に出国」の原則

 東京パラ大会は9月5日で幕を閉じる。今大会で海外選手らは「競技終了後または敗退したとき、48 時間以内に出発する」(公式プレーブックより)というルールがある。IPC(国際パラリンピック協会)広報担当はアフガニスタン選手への特例に言及しなかった。ただし、その上で「最も大事なのはアスリートの健康と安全」と述べ、選手たちに惜しまぬサポートをすることを誓った。アフガニスタンの選手たちは、閉会式に姿を見せるのだろうか。そして、その後は……。

 スポーツを通じて、平和な世の中の実現を目標に掲げるオリンピック。そして共生社会を目指すパラリンピック。その開催国である日本は、開催国として今後国際社会の中で、アフガニスタン問題にどう向き合っていくのか。そして、私たち一人一人には何ができるだろうか。

(取材・文/上垣喜寛 撮影/越智貴雄)

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